これでも精一杯の距離

 遠慮がちに重なる食器の音とか、鼻腔をくすぐるコーヒーの匂いとかで、伊勢はもう朝なんだとジワジワと眠りから覚めていく。腕を横にのばした隣にはもう永井は居なくて、まだほんのりと温かさを残したシーツと枕がある。伊勢は、目を閉じたまま手探りで永井の枕を掴んで、自分の方に引き寄せると抱きしめて顔を埋める。大好きな永井の移り香がコーヒーの香ばしい匂いと取って代わった。
  「…伊勢、起きた?」
 シーツの上で動いた伊勢を目の端に捕らえて、永井は静かに声をかける。
  「起きてない…」
 永井の枕をひしっと抱きしめ、背中を向けたまま ちぐはぐなことを言う伊勢を見て、永井は目を細めた。
  「じゃ、コーヒーが落ちたら起きて」
 まるで駄々っ子をあやすように言うと、伊勢は「うん」と答える。寝起きの伊勢の扱いは、もう手馴れたものだ。
 永井の部屋に泊まるのはこれで何度目だろうと、伊勢は覚醒の波間でまどろみながら考えていた。

 最初は、たしかコンパの帰り。…あ、違う、ゼミの飲み会だったかな。終電が無くなって泊めてもらったのが初めてこの部屋に来た理由。あの朝も永井は先に起きてコーヒーを淹れてくれたっけ。
 …でも今日は正直、コーヒーよりも冷たいミルクな気分。

 その時ベッドの端、伊勢の背中側に永井が腰を下ろした。伊勢は抱いていた枕を放し、ゆっくり仰向けになりながら振り返った。レースのカーテン越しに差し込む柔らかい朝の日差しが眩しい。
  「はい、ミルク。冷たいよ」
 伊勢の目の前に、永井からコップが差し出される。
  「…」
  「あ…っ、ミルクじゃ…なかった…?」
 永井は少し しまったというような顔をして、ベッドから立ち上がろうとした。
  「待って」
 伊勢は起き上がって永井の腕を掴み、また腰を戻させた。
  「ミルク飲みたかった、すごく」
 永井の手からコップを受け取り、喉を鳴らして伊勢は一気に飲み干した。その様子をニコニコしながら見ていた永井に空いたコップを渡すと、伊勢は不思議そうな顔をして永井の顔を見つめた。
  「え…っと、…何か顔についてる?」
 永井は苦笑する。どっちかというと、今伊勢の口の周りに“牛乳ヒゲ”がついていて。
  「ううん。永井、すごいなって思って」
  「どうして?」
  「だって、オレ、コーヒーが来ると思ってたけど、冷た…」
  「冷たいミルク、飲みたかったでしょ?…もう、なんとなく分かるよ、伊勢のことは」
 冷たいミルクが来た、と言おうとした伊勢の言葉を遮って、永井は柔らかく笑って言った。
  「あ…別に魔法じゃないから」
  「そーなんだ!オレ、てっきり永井ってば腕を上げたなって!」
 伊勢は大きな伸びをしてベッドから下りると、笑いながら洗面所に向かった。その後姿に向かって、永井は声をかける。
  「あ、ねぇ、朝食を食べたら、先週の教育実習分のまとめを一緒にやろう」
  「あー、そうだったなぁ〜…ちぇ…」
 伊勢は、せっかくの晴天の休日の始まりが憂鬱なことに舌打ちした。
  「…ちぇ、はこっち。なんでうちに枕が二つあるのか、まだ分かってないし。…そろそろツライんだけどな」
 永井はふうとため息をついて、伊勢の寝ていた場所を撫で、未だ自分の気持ちに気づかない彼の鈍感さを一笑した。


 これは2人が聖凪高校の教師になる少し前の、大学時代のお話。

(06.10.21)




    

おわり


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