純情物語

 手塚のすべらかな肌に、仁王の髪の先から汗が落ちる。
 艶めかしい息遣いとベッドの軋む音。
  「う……ぁ…はぁ………ぁ……は……っ……」
 薄暗い部屋に手塚の押し殺した喘ぎ声が、仁王がほのかに色づいた手塚の肌を吸い上げる音に重なる。絶え間なく施される仁王の念入りな愛撫に、声を出し続けて喉はもうカラカラだった。寄せては返す波のように、繰り返し甘い快感は押し寄せてくる。
  「……ぁ…ぁっ…もう……っ」
 手塚は仁王の首に腕を回し、さらに強い快感を強請る。
 目元を染めた愛する人の濡れた瞳に愛おしさを覚え、仁王はチラリと白い歯の覗くぽってりとした手塚の唇に口付けを。
  「手塚…手塚……」
 唇を合わせながら、切なく仁王は手塚の名を呼び続けた。




 行く当てのない仁王は、知り合って間もない手塚のマンションに転がり込んでいた。毎朝出かける仁王を手塚は送り出していたが、仁王が帰ってくるころには居たり、居なかったりとそれぞれお互いを干渉しない生活を送っていた。
 結局手塚はどこでどんな仕事をしているのか知らないままの仁王だったが、手塚といると心地いいし、知らなくてもなにも支障がないので聞くこともなかった。そして仁王も自分の話は特にすることもなかった。…説明するのが面倒だから。
 組では、仁王はだいたい柳生とペアを組んで行動している。 今日も二人でシマにある駄菓子屋に、ショバ代の徴収に。
  「仁王くん…そのおまけ、すっごいレアなんですよ。譲ってくださいませんか?」
  「いやだね〜、俺は興味ないけど、何かあったときコレを餌に柳生に頼みを聞いてもらうんだから〜」
  「なんて卑劣なっ」
  「それが性分じゃ」
 二人が駄菓子のおまけでもめていると、店の奥から丸い眼鏡をかけた老婆がニコニコと笑いながら出てきた。
  「いい大人がそんなことで言い合いをするんじゃないよ」
 駄菓子屋の老婆は、孫を見るような目で二人を見ていた。
 年老いた今、仕事で大阪に移り住んだ息子一家には二人の孫がいたが、今年の正月にも帰っては来ずで、時折訪れる立海組のこの二人が本当の孫のような気がしていた。
 長年寄り付かない息子や孫に比べ、時々顔を出すこのガラの悪い二人の方がかわいいとさえ思い始めているようだった。
  「おばあちゃま、もうこのシリーズ入荷しないんですかっ!?」
  「往生際の悪い男やのう〜柳生は」
  「これっ、もういい加減にせんかっ」
 周囲をビルに囲まれたこの家は、昔から駄菓子を売り生計を立てている。不況の波に煽られ、時にはパートで食いつなぎながらも息子を立派に大学まで卒業させた。区画整理にも首を縦に振らず、ただ死んだ亭主の家を守り続けている頑固な老婆に、立海組の幸村はショバ代の徴収という名目で柳生と仁王を時々送り込む。
 それは暗に一人で暮らす老婆の様子に異変がないか見て来いという意味なのだ。
 駄菓子屋の帰り道、少し冷たくなった風を遮るようにコートの襟を立てて柳生は立ち止まった。
  「…仁王くん」
 いつになく神妙な声音の柳生を、仁王は振り向き首をかしげた。
  「仁王くん、ちょっと真面目にお聞きしたいことがあります」
 その言葉に、少し先を歩いていた仁王は体ごと柳生に向き直った。
  「えらく真剣じゃのう。なんだ?」
  「あなたが同居してる手塚って男のことです」
  「……」
 柳生は手塚の素性を仁王に訊ねてきたが、何も知らない仁王は何一つ満足に答えることができなかった。
  「…呆れた。呆れました。いくらなんでも、もう少しお互いの事を知っていると思ってましたよっ」
  「…はい、すみません」
 仁王はなんだか申し訳ない気分になって、宿題を忘れて先生に怒られてる小学生のようにシュンとしていた。
  「はぁ……どうしてこんなことを聞いたかというとですね…」
 メガネを押し上げた柳生は、ひとつずつゆっくりと仁王に話し始めた。




 手塚は上半身を起こすと、仁王の股間に手を差し伸べた。仁王の分身を握ると、みるみる太さも硬さも増す。
 衣擦れの音を僅かにたて、手塚は唇を仁王自身に寄せる。先端を口に含むと、僅かに塩の味がした。口の中におさまりきらない茎は手で扱く。
 膝立ちしている仁王は、頭を前後させて一生懸命に己を舐める手塚の髪を撫でた。
 上目遣いに手塚が仁王を見上げると興奮剤になるようで、また硬さを増した仁王の分身から、手塚の口の中に塩の味が広がる。
 手塚は先端から口を離し、茎の部分も濡らし始める。
  「……。…大丈夫、濡らさなくていいぜよ」
 手塚はその言葉に少しはっとした様子で、真っ赤になって慌てて唇を離した。




 柳生の話を聞くうちに、仁王の顔色が見る見る変わっていく。
 柳生は、手塚は榊会長の家にいた男ではないかと言った。しかも公には“手伝い”とされているが、事実上榊会長の“情夫”だったらしい。最近その男が居なくなったと聞いていたが、実際は黙って出て行ったみたいだった。
 榊会長の目を盗み手を出そうとした輩が逆鱗に触れ手討ちにされ、そのことを気に病んだ男が出て行ったというのがもっぱらの噂だった。
  「…その話、もし、その男が、本当に手塚だったら……」
  「アナタはもちろん、…幸村組長も大変なことになりますよ」
 柳生はメガネを押し上げる。
  「…実は既にちょっと調べていますから、はっきりと分かるまでは絶対に誰にもばれないようにしてください。いいですね?」
  「……」
  「い、い、で、す、ねっ」
  「あ、はいっ」




 ローションで丁寧に解した手塚の濡れた秘所に、仁王の楔があてがわれる。これから与えられるであろう快感に、手塚の喉が鳴った。開発された体は痛みも知ってはいるが、それを上回る快感も知っているから。
 仁王が侵入を開始すると、思わず噛み締めた奥歯から呻き声が零れた。
  「ぅぅ…っ」
 折った膝の上に手塚のふとももを乗せるようにして、仁王は少しずつ狭い穴を侵略していく。手塚の双丘を指でひろげてゆっくりと。
 薄いゴム越しに感じる仁王の熱い欲望に、手塚は戦慄いた。
 手塚のどこをどうすれば感じるのか、知り尽くした仁王はゆっくりとポイントを探る。
  「ぁぁぁ……っ」
 手塚の反らした胸の小さな突起に、仁王は指を這わせた。人差し指の腹でこねるようにして、つまむ。
  「んっ…っ」
  ―――手塚は挿れてる時の方が感度ええんじゃ
 仁王は体を捩った手塚を見て、クスリと微笑んだ。
  「気持ちいいか?…今度はどうして欲しいか言うてみんしゃい」
 仁王が言うと、手塚は一層頬を染め首を左右に振った。
  「やっ……!」
 片腕を目元に押し当て顔を見せまいとする手塚は、もう何度も体を重ねてきたというのにひどく初々しくて。
  「どうして……」
 ポツリと手塚が。
  「ん?」
  「どうして今日はこんなに……」
  「こんなに?…こんなに何?」
  「……こんなに焦らすんだ?」
 仁王はいつも手塚を強引に快楽に導く抱き方をしていた。自分勝手とはまた意味が違うが、丁寧などという細やかさを表現する言葉とは真逆に位置する言葉が似合う、そんな抱き方だった。
  「…焦らしてなんかないぜよ。ただ今日はじっくりお前を味わいたいだけだ」
 仁王はまた深く手塚の腰を抉った。




 時間に正確で真面目な柳生が、朝 彼の定刻に顔を出さなかった。不思議に思っていると、仁王の携帯に柳生から連絡が入る。呼び出されて出て行くと、そこはおしゃれなカフェなどが立ち並ぶ通りだった。
  「仁王くん、ほら、あれをご覧なさい」
 柳生が指す方を見れば、なんと手塚がぎこちない手つきでケーキやコーヒーを運んでいるではないか。
  「…手……っ」
 言葉を失う仁王を見て、柳生は肩を落とし深く息を吐いた。
  「…やはり、あれがアナタの言う“手塚”でしたか……」
 そのセリフは、仁王に手塚の正体を把握させるには充分すぎるほどのものだった。
  「まあ、あれほどの美形ですからねぇ。そうそう似たような人物はいないでしょうけど…」
 柳生がいろいろとしゃべっていたが、仁王の耳には何一つ入っては来ない。
 慣れないであろう給仕を真剣な顔でやっている手塚を愛おしく感じる一方で、やはり考えていた一番最悪な結果になってしまったことに体中の力が抜けてしまいそうだった。




  「ああああっ………っ!」
 仁王に腕を引っ張られ、繋がったままその膝に乗せられた。自分の体重がかかって、ますます仁王の楔は手塚の奥深く潜りこんだ。手塚は仁王の逞しい肩にしがみつくようにして抱きついた。
 手塚の細い腰に腕を巻きつけ、仁王は螺旋を描くように腰を回す。体の間にある手塚の中心も擦れて、言い知れぬ快感が起こった。
  ―――お前がどこの誰でも 放しゃしないぜよ
 手塚の反らせた白い喉元に、仁王は唇を押し付け吸い上げた。赤い痕を付けるために。まるで自分の所有印のようにして。




  「『木を隠すなら森に』とは言いますが、カレの居場所がばれるのももう時間の問題だと思いますよ」
  「ああ…」
  「カレがこの店で働き出してから、女性客がものすごく増えて…」
  「ああ…」
  「だからワタシも突き止めることができたわけですし…」
  「ああ…」
  「……」
  「ああ…」
  「ったくもう!ワタシは何も言ってませんがっ?さっきから、ああ、ああ、って。…わかってますか?今からでもさっさとカレの部屋から出てくださいよ!いいですねっ」
  「……」
 柳生の言葉にずっと適当にとは言え相槌を打っていた仁王だったが、「部屋を出ろ」という言葉には何も答えなかった。
  「仁王くん…アナタ……もしかして迷ってます?」
 仁王はうつむき加減に小さく頷いた。
  「……。呆れました、が、まあ、きっとそんなことだろうとは思っていました。……非常に聞きにくいのですが、……もう彼とは、その、そういう…関係なんですか?」
 少しばかりの間を置いて、仁王はさっきと同じように僅かに首を上下させた。
 それを確認した柳生は、ふうとため息をついたかと思うと、ぽつりと「あの美しさじゃ仕方ありませんね」と同情するような言葉を呟いたのだった。




 きゅう…と手塚が仁王を締め付ける。四つんばいにさせた手塚の腰を持ち、仁王が最奥まで突き上げた途端手塚は精を放ったのだ。
  「ぁぁぁぁーーーーー……っ」
 シーツを掴み、背を弓なりに反らせてビュクビュクと。
 強く締め付けられて仁王は動けないでいたが、ふっと弛緩した手塚がばたりと倒れこんだので、律動を早める。
  「もう一回イクか…っ?」
 息を弾ませラストスパートをかける仁王の分身は、手塚の体をまた欲望の淵に引きずり出す。吐精したばかりで柔らかくなっていた手塚の中心を、仁王は背中から抱くようにして手を回しゆるく握りこむと、上下に扱いた。
  「…ぁ……や…っ……やめ……っ」
 敏感になった手塚の中心が歓喜したように硬さを取り戻すと、仁王は手塚の両肘を引っ張るように持ち、上半身を起こさせて突き上げた。
  「ホラ…もっかいイケ…っ」
 激しく腰を打ち付けて、仁王は手塚と共に登りつめようとした。
  「ぁぁぁーーっ……ぁっ……っ」
  「く…っ…ぁ…手塚っ……俺と…」
 2度目の射精を強引に促され、手塚にはもう仁王の言葉を聞く余裕さえとっくにないのに。
 それを仁王は分かっていたけれど。
  「手塚っ…俺と、俺とふたりで逃げよう……っ」

(05.12.4)









  「ホントにこれが役に立つときが来るとはのう…」
 仁王はポケットから無造作に、先日当てた駄菓子のおまけを出した。柳生が譲ってくれと言っていたアレだ。
  「あああ…っ そんなに雑に扱ってっ。言っておきますが、ワタシは別にこれが欲しかったわけではありませんからねっ」
  「あ、じゃあ要らん?」
  「要らないとは言ってませんっ」
 柳生は仁王の手から受け取ると、アイロンのぴしっとかかった白いハンカチを広げ、大事そうに包んだ。

 カフェで働く手塚を見てすぐ、仁王は柳生に手塚と逃げる手助けを頼み込んだ。柳生は少しのためらいの後、深夜トラックの荷台に紛れて東北方面に行けるよう段取りをすると言ってくれた。
 もちろん、組長である幸村には内緒だ。
 仁王が居なくなれば幸村も多少は気にはするだろうが、仁王は普段からいい加減な甲斐があってというか、フラフラと居なくなっても別段不思議な男ではなかった。
 手塚と逃げたことさえバレなければ大丈夫だと、柳生は踏んだのだ。
  「そうしたら考えてる時間はありません。さっそく明日の夜ですよ。念のため仁王くんだけワタシの家から出発してもらいます。それから…」
 柳生は声を低くして。
  「くれぐれも手塚くんと逃げることがバレないようにしてくださいね。バレたらアナタだけではない、幸村組長もワタシも沈むということを肝に銘じておいてください」
 ものすごく危ない綱渡りなのに、柳生は渋々とは言え手助けしてくれる。柳生は以前から榊会長のところの手塚の噂を耳にしており、ひそかに憐れに思っていたこともあって、仁王に加担することにしたのだった。




 仁王は珍しく柳生と別行動で、ひとりで駄菓子屋に来ていた。
  「…ばあちゃん、もう会えんかも知れんけど元気でな」
 店の奥の上がりのところに腰を下ろし、老婆と茶をすすりながらポツリと別れの言葉を口にした。
  「お前さん、どこか遠くに行くのかい?」
  「うーん。遠くはないけど……きっともうここらには帰ってこれんのう」
  「…いつ出発だい?」
  「今夜。だからばあちゃんの顔を見に来たっちゃ。ま、ばあちゃんは殺しても死なんじゃろからまた会えるかもな」
 しんみりとしたのが苦手な仁王は、わざと明るく振舞う。
  「そうだよ、あたしゃーあと100年くらい生きるからねぇ。ふん…また必ず会いに来い」
 そして老婆はそれ以上、聞くことはなかった。
 仁王がお茶のおかわりをした時、携帯が鳴った。柳生からだった。
   ―――「にっ仁王くん!今どこにいますかっ!?」
 柳生の慌てた声が耳をつんざく。
  「一体どうしたんじゃ、騒々しい」




 柳生の最近の行動が不審だったため、幸村はこっそり他の組員に柳生を調べさせていた。すると親交のある運送業者に出入りし始めたので、平和的に業者に確認してみると、今夜男二人を荷台に忍ばせて欲しいと柳生から依頼があったという。
 男二人。柳生本人が仁王と夜逃げするとは考えにくいので、直接柳生に―――こちらも平和的に―――確認した。
 幸村に逆らえない柳生は全てを話した後幸村に縋り、仁王の命だけは助けてやってくれと懇願した。
 事情を聞いた幸村はしばらく考えた末、柳生の行動を全面的に支援すると約束した。つまり、自分も仁王と手塚の逃避行を手助けすると言ったのだ。
  「ケツは俺がとる。今夜と言わず、今すぐ、早く仁王たちを逃がしてやれ」
 幸村が言い終わるか終わらないかくらいの時「たった今榊会長が予定外の外出をした」という情報が入った。




 柳生の黒い愛車が駄菓子屋の前に停まった。
 上質のコートを翻し、柳生は運転席から飛び降りて仁王の元に走ってきた。
  「どうしたんじゃ、そんなに慌てて」
  「そんな悠長にチュッパチャップスを舐めてる場合じゃありませんよっ!今組長が手塚くんを迎えに行ってますから、アナタもさっさと駅に向かいましょう」
  「ちょ…ちょっと待て!どうして組長が手塚を迎えに?まさか何もかもバレたのか!?」
 蒼くなる仁王に、柳生は「くわしいことは車の中で」と腕を引っ張った。
 柳生が自慢の車を走らせた途端、目の前に榊の車が現れた。
  「っ……!」
  「…何でじゃ……」
 仁王がチッと舌打ちすると、柳生は「もはやこれまでです…か」とハンドルを手のひらで打った。
 榊が車から降りてこちらに向かって歩いてくるので、仁王も車から降りた。
  「…手塚はどこにいる?」
 低く凄みのある声。
 関東をまとめる男だけあって、その纏っているオーラには近くにいるだけでも弾かれそうなくらいのパワーがある。
 さっき柳生は、手塚は幸村が迎えに行ってて仁王にも駅に向かえと言った。そして榊は手塚の居場所を知りたがっている。
 つまり手塚は幸村組長の保護下で 駅に向かっている、そう思った仁王は榊相手に堂々と言い放った。
  「すんません、会長。…手塚の居場所は言えません。勘弁してやってください」
   ―――たとえ俺が駅に行けなくても、たとえ俺がここで死んでしまっても、手塚が自由に生きていければいい。少しでも手塚が遠くに逃げれるように、俺がここで時間を稼いでやる。
 仁王は深く息を吸った。




  「逃……げる?…どうして?」
 息を整えながら、手塚はやっと声を絞り出す。
  「実は…俺、立海組の……。んで、お前のことを、…今日、初めて知った」
  「…っ!」
 さっと蒼ざめた手塚は、力の入らない腕でシーツを引っ張り体に巻きつけた。そして恐怖に満ち満ちた瞳で仁王を見た。
  「てづ……」
  「来るなっ」
 仁王が肩を抱こうと手を伸ばしたら、身を引き手塚は叫んだ。
  「大丈夫。大丈夫だからこっちへ来んしゃい……」
 仁王は手塚に近づいていった。まるで路地裏の野良猫をなだめるようにして。
 そして仁王に抱きしめられたまま、手塚はその逞しい胸の中で、榊の家であったことを話した。自然に眠りにつくまで。




  「…ほう。たしか貴様はこないだの度胸のある男だな。たしか、仁王と言ったか」
 榊は仁王を上から下までねめつけた。
  「手塚はどこだ」
 手塚の居場所は言えないと言った仁王に、榊はまたさっきと同じ質問を投げつけた。
  「絶対に言わねえ。…手塚は絶対に渡さんぜよ」
 強い決意を秘めた仁王の、獣じみた琥珀色の瞳。榊も思わず目を眇めるほどの。
  「…本当ならお前たち全員東京湾に沈めて魚の餌にしてやるところだが……、私もお前に義理がある。それに今回は手塚の素性を知らないでやったことと見受け、情けをかけてやろう。……どうだ、ここは素直に言うことをきいて手塚を差し出せば、悪いようにしないが?」
  ―――…俺たち全員だと?
 やはり、仁王の一番痛いところを突いてこられた。自分だけならまだしも、幸村や柳生も巻き込むとなると一瞬の迷いが生じる。それは立海組の崩壊を意味するからだ。
  「…私はとっても気の長い方なんだがね、手塚のことになるとどうも気が短くなるらしい。ふっ…自分ではよくわからないんだが」
 榊がロングコートの内ポケットに、ゆっくりと手を差し入れようとした。
  「旦那様っ!」
 その時、どこからか声がした。声のする方を見ると、手塚がこちらに向かって走ってくる幸村の車の窓から顔を出し叫んでいた。
  「……あっちゃー。何でこっちに来てんだよ」
 仁王は苦く舌打ちをした。
 榊は手を下ろし、ふ…と優越感の透けて見える顔で笑った。
 幸村の車が静かに停まると、手塚は長い足をドアから出し降りて来た。カフェの黒い制服のままだった。
  「…っ、国光、そんな格好で…!今までのことは怒らないからすぐに帰ろう。さぁ早く私の車に乗りなさい」
 榊は嬉々とした様子を隠すことなく、手塚を手招きした。
  「…旦那様、勝手に家を出てすみませんでした。ですが、俺はもう戻るつもりはありません」
  「なっ…!」
 榊は心底驚いた顔をした。まさか手塚が帰らないと言うなんて、考えたこともなかったらしい。
  「旦那様に今までしていただいたご恩、決して忘れたわけではございません。幼少の頃よりお世話になったことはとても感謝しています。…だけど自由がなく、まるで囚われているようでした」
 柳生、そして幸村も車から降りてくる。手塚が幸村の方に視線を送ると、幸村は柔らかな微笑を湛え頷いて見せた。幸村の仕草に力を得たか、手塚は再び話し始めた。
  「友人の一人もいない俺が、たまに家に来る同世代の組員の方と少しでも親しく話をすれば、すぐにその人はいなくなる。そして二度と顔を見ない…。旦那様、俺が何も気づいてないと思っていたのですか?」
  「友達が欲しいなら何故早くそう言わない?それならこうしよう。そこにいる二人をお前の“友人係”として、毎日うちに顔出しするようにさせよう」
 手塚の言葉を受け、榊は仁王と柳生を指差し、こともあろうか“友人係”に任命した。
  「違うんです、旦那様。そういうことじゃ、無いんです……」
  「いい加減にせんか、太郎!」
 いつの間にか出てきていた駄菓子屋の老婆が、榊に向かっていきなり大声で叱咤した。仁王は驚いて、老婆の肩を掴んだ。
  「ばあちゃん!危ないって!………え?太郎?」
  「げっ!スミレさんっ」
  「え?“スミレさん”??」
 仁王が見ると、榊がぎょっとした顔を老婆に向けていた。
  「さっきから聞いてたらお前はわがままばっかり言いおって。昔はもっと素直な子じゃったのに」
 仁王は柳生を振り返り、どういうことか?という顔をして見せたが、柳生も首を左右に振るばかりだった。幸村を見ても同じようで、むしろ仁王や柳生よりも驚いた顔をしていた。
 みんなが動揺している間に、榊は頭を垂れ“スミレさん”と呼んだ老婆に説教をされていた。
  「スミレさんにそう言われたら仕方ない…っ。…国光!」
  「あっ、は、はいっ」
 榊は手塚を呼びつけると
  「…長い間ご苦労だった。これからは、幸村のところで世話になるといい。……何か不都合があればいつでも帰って来なさい」
 さっきまでのオーラはどこへやら、泣く泣く車に戻っていった。
 何が起こったのかわからない一同は、榊の車が走り去るのをただ呆然と見ていた。
  「…ったく」
 “スミレさん”の声で、我に返った仁王は
  「ばっ…ばあちゃん!ばあちゃん一体何者じゃ!?」
 幸村も柳生も「うん、うん」と何度も頷いた。
  「まぁ、あれじゃ。長生きするといろんなことがあってじゃな。…早い話が、あたしゃ昔、あいつのオヤジさんのコレじゃった」
 小指を立ててニヤリと笑う老婆は、もしかすると関東最強…?
  「お前さんたちには普段世話になってるからな」
 楽しげに笑いながら店に戻って行く“スミレさん”の背中を、みんな口を開けたまま見送った。

 手持ち無沙汰にしている手塚のそばに近寄った仁王は。
  「それ、けっこう似合うのう。じゃけん…家ではギャルソンじゃなくて、メイドになってくれんかのう。んで、俺にも『旦那様ぁ〜』って言って欲しいっちゃ」
 お仕着せの制服を眺めながら言った仁王は、手塚の眉間に不穏な皺が刻まれたことを見逃した。
  「………。お前もう帰って来るな!」
 スパーンっとキレイに平手が決まり、仁王の頬には真っ赤な手塚の指の跡が。
  「痛ってぇっ!」
  「グーで殴らなかっただけありがたいと思え!この変態がっ」
 仁王はうっかり忘れていたが、手塚は顔のわりにケンカがとても強いのだった。
  「仁王くん…。アナタにはまだ『メイドプレイ』は早そうですねぇ」
 柳生は苦笑した。
  「…ところで仁王」
 同じく苦笑していた幸村は、仁王のそばに歩み寄ってきた。
  「俺に黙ってどこに行くつもりだった?ん?」
  「あ、いや、その…!」
 幸村は優しい笑顔だが、目が笑っていない。
  「すっ、すいません!」
 仁王は地面に額をこすりつけるようにして頭を下げた。
  「なぜ相談してくれなかった?悲しいねぇ、頼りがいのない親分だって言われたみたいで。涙が出ちゃうよ」
 幸村はしゃがんで目頭を押さえ、涙を拭うフリをしてみせた。もちろん芝居だ。
  「……え?」
 仁王が顔を上げると、幸村はクスクス笑った。
  「もういいや。別に怒ってないし。それよりさ、女性客に大人気の手塚を勤務途中で連れ出すにあたって、店長さんに交換条件を出された」
  「交換条件?」
  「そう。クリスマスにサンタの格好をするバイトが決まらないから俺にやれって。それお前やれ」
  「えええええーーーっ」
  「あれ?…イヤ?」
  「あ、いえ、ああー嬉しいな〜ぁ。わぁい、サンタのバイトだぁ」
  「そう、よかった。じゃ、今から面接に行こうか。手塚も乗って」

 色とりどりの空き缶はひとつも付いてないけれど、白い鳩も飛んでないけれど、幸村の運転する車に乗った出来立てホヤホヤのカップルの前途に幸あれ…?




(05.12.16)

おわり



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