「ではこれで企画会議を終了する」
部長の言葉で、ガタガタという椅子の音や労をねぎらう出席者同士の挨拶する声が会議室内に満ちる。
「んーーーん……っと…ふぁ〜〜〜〜っ…はぁ疲れた」
仁王は大きく伸びをした。
「大きなあくびだな。…お前、話、ちゃんと聞いていたんだろうな?」
手塚は眉を顰め、書類をトントンと机で揃えながら立ち上がった。
「…ん〜、聞いてたけど……、なんで俺ココにいるんだ?って内容だったな」
「なんでココにいるって、お前は俺と組んで、今回の企画を任されたからに決まっているだろう」
手塚はいよいよ呆れた声で、はぁ とため息まで零した。
「だから、それよ、ソ・レ」
席を離れかけた手塚を、机に頬杖ついて仁王は見上げた。
顧みた手塚と仁王の視線がぶつかり、そして絡む。
夜毎姿を変える不実な月のような仁王の瞳は浮気な男そのもので、見つめられるとなぜか鼓動が早くなる。
手塚は思わず目をそらした。
「何で入社以来今までずっと営業だった俺が、いきなり企画に引き抜かれるワケよ?会議だって ちんぷんかんぷん だったぜよ」
仁王の営業成績は悪くない。むしろ部内ではトップクラスだった。だから自分も周りもこの異動に驚いたし、惜しむ声も多かった。
「それは…それはお前がこの企画に必要な人材だったからだろう」
ドキドキしていた、仁王の瞳に。どうしてこの瞳に見つめられるとこんなにも胸がざわめくのだろう。
***
同期入社した手塚と仁王は、試用期間中は同じ班で研修を受けた。2ヶ月間、土日祝日を除いてほぼ一日中一緒にいると、嫌が応でもお互いの性格がおぼろげながらも掴めてくる。
仁王はlightな男だった。屈託が無いといえば聞こえはいいが、要するに軽い男だった。しかし仕事に対してはいい加減なところはなく、きっちり成績として残すので部内での評価も高く、人当たりがいいので老若男女、社内外問わず人気があった。
対して手塚は、新入社員の頃から仕事の呑み込みが早く落ち着きがあり、何事にも真面目に取り組むので上司からの信頼もすぐに得た。その上容姿端麗ときているから、やはり女子社員のファンが多い。
女子社員の間で密かに行われている人気投票では、仁王が「抱かれたい男」、手塚が「結婚したい男」にエントリーされると言えばふたりのタイプの違いがよく分かるだろうか。
***
一人、また一人と会議室を出て行く。
「君たち、まだ残っているかい?」
声の方を見ると、部長の横に座っていた人が二人の方を見ていた。席を立つ気配のない仁王に向かって言ったのか、この部屋の鍵をつまんで顔の前にブラブラさせていた。
「あ…」
もう出ます、と手塚が言うより早く、仁王が声を発した。
「すみません、もう少しだけ。俺たちが鍵を閉めて行きますんで、預かります」
そう言って長い足を見せびらかすようにヒラリと机を跨ぎ、スタスタと鍵を受け取りに行った。
「そ?じゃ、頼むよ。君はたしか……手塚くんイチオシの同期くんだったよね?慣れない仕事で大変だと思うけど、がんばって、期待してるよ」
「あー…えっと、はいっ、仁王雅治経験アリ子供ナシ、愛する同期手塚のために、全身全霊尽くしまっす!」
「仁王くんね。失礼、覚えておくよ。…オモシロイね、君」
仁王は大げさに右手で敬礼して合コンのような自己紹介し、部長たちを笑わせた後ドアまで見送った。
「…さて、と」
言いながら仁王は、ネクタイの結び目に右手の人差し指を差し込んだ。唇の端を少し吊り上げて笑い、そして手塚をひたと見据えた。
あの危険で妖しい月のような光を孕んだ瞳で。
「…っ」
やっぱり、この瞳に見つめられるとなんだか居たたまれない。
手塚は不自然なくらい慌てて視線を外した。
「お?なにその態度。なんかやましいことでもある?」
仁王は揶揄するように小さく笑うと、机に近づいて手塚の顔を覗き込んだ。
「別に、訊かれてマズイこと、など、何もない」
否定する言葉は、この手塚の態度から見ても嘘だと言ってるようなものだった。
「……ふうん…。んじゃさ、」
仁王は、クイと手塚の細い顎を人差し指と中指の先で支えて自分の方を向かせた。少し伏せた手塚の視線の先に、仁王の色気の要素になっていると言ってもいい、口元のほくろがあった。
「さっきのあの人が言ってた『手塚くんのイチオシ』って何のこと?なんでお前が俺をイチオシするわけ?……この異動、お前が一枚かんどるような気がするのは俺の勘違いなんかのう?」
「……」
さっき部長たちを相手にしていたような口の上手さを、仁王と違って手塚は持ち合わせていない。ここは逃げるが勝ちとばかりにファイルを小脇に抱えた。
「おっと逃がさんよ?」
また机を跨ごうとしていた仁王は咄嗟に、机を離れようとした手塚の腕を取った。バサッと手塚が持っていたファイルが床に落ち、挿んでいた書類が広がった。
数枚綴りの―――企画書―――それぞれの表紙には、『トワレ(成分表)』『パッケージデザイン』『コピー』などと書かれていた。
「…なんでこの企画に俺がお前にイチオシされる?」
「……」
「言いんしゃい。言うまで放さんよ」
机を跨いだまま座ってしまった仁王に畳み掛けられ、手塚は何とか誤魔化す口実はないかと必死に考える。
……ムリ。
上手い言葉が浮かばないだけでなく、きっと何を言っても仁王は納得しないだろうと思った。誤魔化されるような男ではないことくらい、手塚は知っている。
「黙らんでよ。そんなに言いにくいこと?」
手塚は何て言おうかとそればかり気をとられていて、再び軽く腕を引いた仁王の方にバランスを崩した。
「わっ」
「おっ」
仁王が腕を出してくれたので転倒は免れた。片手を机につきながら仁王の胸に飛び込んだ形になった。
「すっ、すまん」
「や、俺こそ。そんな強く引いたつもりなかったんじゃ」
仁王の顔が、息が頬にかかるほどそばにあった。体勢を整えようと思い腕に力を入れた、そのとき。
「…いい匂い。何か、つけてる?サンプル?」
手塚の首筋あたりに鼻先を寄せ、仁王はすうーっと息を吸い込んだ。
「…ふ……わぁ…っ」
「な、なんじゃ!?」
ぞくぞくと体が反応し、驚いて手塚は上体を起こした。頬がにわかに粟立つ。顔が熱い。耳もきっと赤い。それでも仁王は、腕を放してはいなかった。
「…ふーん」
「な、何もつけていない…っ」
なんとか今の自分の状態を少しでも誤魔化せればと思い、とりあえず手塚は答えた。しかし、仁王相手にはそんな手塚の努力は何の役にも立たなかった。
そして手塚の様子を見て意地悪く笑った仁王の唇には、さっきまでは無かった淫らさが宿っていた。
「フェロモンかのう?」
机を跨いだままだった仁王は、こちら側に向かって座りなおした。そして、手塚を足で引き寄せた。
「なっ…!何を…っ」
手塚が抗議の言葉を口にする間も仁王は足に力を少し入れ、手塚の太ももを自分の両足で挟んだ。
手塚は完全に身動きが取れなくなってしまった。
「なんか、もう別に言わなくてもいいかな、って思ってきたっちゃ」
冗談めかして言いながら、仁王は手塚の腰に手を置いた、その時。
ヴヴヴヴヴ……ヴヴヴヴヴ…
「……わわわぁ…ぁっ」
「んん!?」
びくりと手塚が跳ね上がったので、仁王は驚いた。
「ああ…これか。ビックリしたぜよ。まだなぁーんもしとらんのに」
会議中からバイブレーションにしていたままの携帯が、仁王のスーツのポケットに入っていた。それがちょうど手塚の股間辺りにあったのだ。
「誰か知らんけど、なかなかナイスなタイミングじゃ。手塚ってば携帯の振動で体が跳ねたんだ、えっち」
「もういいだろう!放せ!早く電話に出ろ!」
手塚は耳まで赤くして、グイグイと仁王の肩を押す。
「電話じゃないぜよ、切れたから。たぶんどこぞの女からのメールじゃろ」
「…あっそう」
「…何その反応。ヤキモチを妬かれてるような気がしますが?」
「そんなの妬くわけが……っ」
「無いと言える…?そのふくれっ面、携帯で撮ってやろうか?」
仁王はグイと手塚の腰を引き寄せ、腕を掴んでいた手を首の後ろにやり顔を接近させた。反射的に目を閉じた手塚は、フフ…という仁王の声でそっと目を開ける。
「キスされると思った?」
「いっ…いい加減にしろっ!」
ガタタ…ン
仁王はすばやく手塚のメガネを片手で外し、イスを押し退け立ち上がると、手塚の肩を持ち壁に押し付け唇を重ねた。
「んぅ…っ」
手塚は何が起こっているのかわからないまま、仁王のキスに身を委ねる。仁王の唇は手塚の唇を覆い、下唇を挟むようにして軽く吸う。そして仁王は舌の先を尖らせ扉をノックするように閉じたままの手塚の唇をつつく。肩を掴んでいた仁王の大きな手のひらは、手塚の首筋から耳の後ろを通り、頬を撫でこめかみから指先を髪の中に入れて毛先まで梳いた。そしてまた頬へと戻ってきてそっと撫でる。手のひらを頬に置いたまま、親指で手塚の顎を少し押さえて唇を開かせようとしてくる。とても自然で慣れた仕草だった。
体の力が抜けてきて、頭が……ぼんやりしてくる……。
体を離そうとしてぎゅっと仁王の腕を掴む手塚の指も、だんだん力が入らなくなってきた。息継ぎしたくてうっすらと開いた手塚の唇の隙間を仁王は見逃さない。親指で難なく顎を引き下げ、唇の重なる角度を変えて、舌をねじ込む。ゆっくりと侵入してきた仁王の舌は、歯列を抜け上あごを掠めると、未だ事を理解しきれていない手塚の舌を誘うように絡めとる。そしてゆるく吸う。仁王が角度を変えるたび、湿った音が二人の唇から零れ出した。
例えば思い切り仁王の胸を突き飛ばせば、このキスは終わる。
例えば今口内をまさぐる仁王の舌を噛めば、このキスは終わる。
でも…
イヤじゃない。
***
しばらく手塚の唇を味わった後、ゆっくりと仁王が唇を離した。されるがままだった手塚は、上気させた顔を伏せ気味にして長いまつ毛を小刻みに震わせ、仁王につかまれた肩を上下させて息をしていた。
「なん、の、マネだ、これは」
左手の甲で濡れた唇を拭いながら、仁王を睨みつける。漸く口をついて出た言葉はとんでもなく気が利かなくありふれていて、手塚は我ながら情けなく思った。
「…いい加減にするのは手塚の方じゃ」
責めている、だけどとても穏やかで、口づけの後の甘美な気だるさがある仁王の口調。キスの謝罪どころか、弁解するつもりすらさらさら無い。
これ以上は引っ張れないと思ったのか、手塚はうつむき加減に視線を外し話し始めた。
「……今度の企画は、男性用でも女性用でもない、かと言ってユニセックスでもない感覚と言われた。サンプルのトワレの匂いを嗅いだ時、……何故か、お前の顔が浮かんだ。それで俺が部長にお願いしてお前をこの企画に入れてもらったんだ。商品が発売されたらまたお前は営業に戻れる…そういう約束もちゃんとしてある。………これでいいだろう、もう、放せ。他に何か訊きたいことがあれば言え、ちゃんと、答えるから」
「あっはー、俺が今言った『いい加減にしろ』というのは、そっちの話ではなくー…ええっと、ね。まあ異動の件はそういうことなのですね、了解」
「……へ?この話じゃない?」
「訊きたいこと、ね。…じゃぁさ、お前俺のことが好きなんだろ?」
仁王の口調は相変わらず甘美で、口づけのよすがを残す濡れた唇と心にざわめきを呼び起こす瞳は、疑問形でありながら相手に否定の言葉を言わせない力があるようで。
「ちっ違う…っ。いや、キライというワケではないが、お前は女性関係も派手みたいだし、この企画のコンセプトのひとつの『男なら“抱きたい”女なら“抱かれたい”と思わせる』というのに通じる何かを提案できるかもと思ったから、推薦したんだっ。お前は女子社員が毎年こっそりやっている“抱かれたい男”で常に首位だということも、なんと俺は知っている!」
「なんとって、えらい自慢げやのう。そんなこと黙ってるだけでほとんどの人間は知ってるっちゅうに。でも…それだけ?そのコンセプトを聞いて『手塚くんが仁王くんに抱かれたい』という気持ちに気づかなかった?俺の言った『好き』っていうのはそういうことなんだケド?」
「あっあっあああるわけないだろう、そんな気持ち!男が男に抱かれたいなんてっ」
手塚が慌てて否定の言葉を口にすると、仁王は不思議そうな顔をして首をかしげた。
「そう?あるわけない?それはお前の常識であって世間の常識ではないだろ?」
この瞳に見つめられると居たたまれない気持ちになるのは、心の中のかすかな想いが立ち現れるような気になるからなのか。
月の下で理性やためらいを捨て自分をさらけ出す狼男のように、俺を縛る常識を脱ぎ捨ててしまえば、この胸をしめつける感情は解き放たれるというのか。
手塚はキッと仁王を睨むと、体を離すべく胸を押した。
「もう行くぞっ」
「…あれ?続きはしないの?」
「続……っ!何を言ってるんだ、お前はっ」
手塚は、仁王の手からメガネをひったくるように取り上げた。
仁王は余裕の透けて見える笑顔で肩を竦めた。満ちた月がためらいを無くさせるように、仁王の瞳は少しずつ手塚をやさしく溶かしていく。
「一言もナシに引き抜いたのは、悪かった。…すまない」
手塚が仁王の体の横をすり抜ける。手塚が自分を追い越した瞬間仁王は呟いた。
「待つのはキライじゃない。そのうちお前の方から欲しがらせて欲しがらせて、体が疼くくらい欲しがらせてやるぜよ」
「何か言ったか?」
「うん、会社だから続きはできないのかーって言った」
あんな―――鈍い快感を体の奥から呼び覚ますような―――キスをしておいて、悪びれた様子の無い仁王に眉を顰めた手塚は、落ちたままだった書類を拾い始めた。
「バカなことばかり言ってないで、お前も手伝えっ」
「へーい」
(06.4.14)
おわり
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