slight

  「…お前は一体ドコから来て、ドコへ行こうとしている?」
 手塚はとりあえず時間通りに来た仁王を見て、至極冷静に努めてそう言った。
  「えーっと、おうちから来て、今から手塚くんと仕事をサボって白昼堂々とデート」
  「デートではなく、市場調査だ。それにサボっているんじゃなく、これは立派な仕事だからな」
  「わぁかってるよ。だから気を遣って乳首が透けないようにジャケットを羽織って来たんじゃない。この暑いのにー」
 仁王は唇を尖らせて、コットンのジャケットの襟をつまんだ。
  「ち、ちく…っ!…っ、気を遣うならもっと目立たない格好で来いっ」
  「だって俺、会社用のスーツか夜遊び用の服しか持ってないんだもーん」
  「はぁ…もういい、わかった。とりあえず行くぞ」






 月曜の朝の会議の後、手塚が仁王に今週の予定を聞いた。
 今週は特に変わった予定はないと仁王が答えると、手塚は
  「じゃ悪いが、今週中にどうしてもやっておかなくてはいけない事は、木曜までに済ませておいてくれないか。金曜は直行直帰でリサーチに行こうと思うから」
  「あー、前に言ってたあれな。わかった、金曜な」
 ちらりと手塚が会議室のドアの方に視線を流す。人の出入りを気にしている様子だ。仁王はスケジュールノートの金曜の欄にメモしながらその仕草を盗み見て、手塚には気づかれないようにクスと笑った。
  「…んじゃ、俺はこれからあの“毒電波の人”と会う予定があるから、先に行くわ」
 仁王はイスから立ち上がりながらペンを胸のポケットに挿した。“毒電波の人”というのは、仁王が取引先の人に勝手につけたあだ名だ。たおやかな笑顔とは裏腹にかなりのやり手と業界では噂されている。手塚と仁王にしか分からない いわゆるコードネーム。
  「あ、う、うん。分かった。ヨロシク言っておいてくれ」
  「アイアイサー」
 仁王はバイバイという意味か、手のひらをヒラヒラさせて背中を向けた。仁王の髪の色は光の加減でシルバーブルーがかって見えて、襟足は少し長く赤い紐のようなものでくくっている。正直、あまり堅気な会社員には見えない。それでも営業部にいた時は成績がよかったというのだから、身なりは関係ないということで、悪いことではないのだと思う。


営業職だから、髪は黒で短くしないといけないなんて俺の決め付けは―――もちろんそうじゃないといけない業種もあると思うが―――やっぱり頭が固くていけないのだろうか。


 手塚はそんなことを思いながら、仁王がドアの方に行く後姿をなんとなくボンヤリ見送っていた。
  「ん?何?まだなんかある?」
 手塚の視線を感じたのか、ドアを出るときに仁王が振り向いて訊ねてきた。
  「いや、別に何も。帰社は昼頃か?」
  「うーんと、それはあちら次第で。またメールするわ」
 他人を魅了する笑顔を惜しげなくもう一度見せて、仁王はウインクして出て行った。
 あんな屈託のない笑顔を向けられると、先日の事が夢の中の出来事だったような気がしてくる。
 先日この会議室で、今まさに手塚が立っているこの場所で、仁王とキスをした。あれはきっと、仁王にとっては冗談以外の何ものでもない戯れだったのだろう。自分が思うほど、仁王は深く考えてない気がする。現にあの後も以前と全く変わらない態度で接してくる。
 あの時の事を思い出すと、バカにされたという怒りよりもむしろ、体は別の熱を孕み始める。はっきり言えば欲情しているような感覚が沸き起こるのだ。悔しいけれど。
  「…はぁ、バカバカしい」
 手塚は大きくため息をつくと、ファイルをまとめて会議室を後にした。



 そして金曜の午前中、冒頭の会話がなされたのである。
 待ち合わせ場所に来た仁王は、黒の皮のパンツにコットンのジャケット。インには黒のフラワープリントの薄手のシャツ。もちろんシャツの胸元と裾のボタンは留めず、真ん中の一つか二つだけ仕方なく留めているようだった。そして深く開いたVゾーンには、ホワイトゴールドにブラックダイヤを配したクロスがぶら下がっていた。
 朝帰りのホストのような出で立ちの仁王の隣に、彼の連れとは全く思えない格好の手塚―――こちらはジーンズにシャツのレイヤードという、ごく普通の格好―――が並んでいると、周りの人たちの微妙な視線が注がれてくる。
 最初は仁王のチャラチャラした格好とふざけた言動のせいでむっとしていた手塚だったが、真面目に本日の仕事をする仁王を見てそんな思いが知らない間に薄れていった。



  「あー腹減ったな。今日はもうこれくらいにして、手塚、晩メシ一緒にどう?」
 夕方になり、そろそろ小腹が空いてきた仁王は手塚に声をかけた。手塚もそう言われて腕時計に目を遣ると
  「もうこんな時間か…。いいだろう、一緒に食べよう。どこか行きたい店とかあるか?」
  「なんかすっごい疲れたから、スタミナたっぷりの焼肉が食いたい」
 仁王の意見は採用され焼肉店に行く事になった。昼食のときに軽く食べて以降まともに水分も口にしてなかった二人は、お腹いっぱい焼肉を食べた後、翌日が土曜で休みだという事もあり仁王の友人が経営するというバーで少し酒を飲む事になった。
 仁王について歩いていると、繁華街の中心部から少し外れてきた。だんだん飲食店が減っていき、民家が多くなってきたなと思っているとついに仁王は路地に入って行くので、手塚は思わず聞いた。
  「…おい、たしかお前、バーに行くと言わなかったか?」
  「うん、言ったぜよ?」
  「こんな民家の立ち並ぶような路地にバーなんてあるのか?」
  「…ここ」
 ピタと仁王が立ち止まり、ごく普通の家を指差した。
  「え?」
 眉を寄せて手塚が仁王の指の先を見ると、門扉はなかったが本当にどこからどう見ても普通のお宅で、看板の代わりに木の表札が玄関のドアの上部に掲げてあった。表札は墨で書かれてあり、周りが暗いせいでよく見なければ文字が読めないくらい いかにも年代ものの風格があった。
  「ココは普通の誰かの家じゃないか」
 手塚は言いながら目を凝らし表札を見た。
  「ほら、“柳生”さんと書いてある」
  「うん、俺のダチ、柳生っていうっちゃ」
 仁王が言いながら玄関のドアに手をかけようとするので、手塚が慌てて阻止した。
  「待て。バーだと言うから俺は来たんだ。いくらお前の友達とはいえ、いきなり知らない人の家に上がりこんで酒を一緒に飲むほど、俺はカジュアルにできていない」
  「家じゃないって言っ…」
 その時、ドアがかちゃ…と遠慮がちに開いた。隙間から顔を出しチラと外を窺った男は、そこに仁王を見つけると途端に笑顔を見せた。
  「ああ、仁王くんでしたか。いらっしゃいませ。お連れ様もいらっしゃいませ。どうぞ」
 おそらくこの上品な男が仁王の友人の“柳生”だと手塚はすぐに分かったが、あいさつをすることもすっかり忘れてしまった。何故なら、柳生がどうぞと言ってドアを全開させた先には、薄暗いがはっきり見えたのだ、“超”がつくほど本格的なお店が。
 驚いて言葉を失っている手塚を仁王は引っ張って中に入り、カウンターの一番奥の端に座らせた。そして、自分もその横に腰を下ろした。そして仁王は「同じのでいい?」と手塚に確認して、柳生に「いつものふたつ」と言ったのだ。



  「珍しいですね、というか初めてじゃないですか?仁王くんがお友達を連れてきてくださるのは」
 柳生はグラスを拭きながら、仁王に話しかけてきた。ん、と短く答えて仁王は既に空にした1杯目のグラスを柳生に突き出しおかわりを催促した。柳生はにこりと笑ってグラスを受け取ると、何も言わず2杯目の酒を作りはじめた。
 仁王の学生時代からの友人柳生は、大学を卒業した後一般企業に入社した。そこで3年勤めた後バーテンダーの仕事に興味を持ち、いきなり会社を辞めて店を開いた。店と言っても何一つ宣伝しないし看板も出さないので、こうして仁王のような友人たちの隠れ家になっていた。客は友人たちが連れて来る友人、そのまた友人へという具合に途絶えることはなかった。そして友人たちも心得ていて、自分が“この人なら”と思える人しか連れてこないのだった。
  「柳生んちは郊外にでっかい家があるんだけど、コイツとコイツの妹が学校に通うのが不便だからって、二人が学校を卒業するまで家族でこの家に住んでたんよ。就職してからは柳生が一人でここに住んでたんだけど、いきなり会社辞めたっていうから来てみたら、こんなんになっとったんじゃ」
  「…はぁ」
 手塚は未だ不思議だった。キョロキョロと店内を見回すが、やっぱりどう見ても普通の、どちらかというと粋な内装のバーだ。しかし外観はただの民家、それもちょっと時代を感じさせる造りの。
  「驚かれたみたいですね」
 柳生がクスリと嫌みなく笑う。
  「ええ、まぁ。一見普通のお宅だったものですから…」
 そう言った後手塚は、もしや外装の資金が足りなかったのだろうかなどと思い始め、これ以上話せば失礼なことを言いかねないと、話を途切れさせるためゴクゴクと酒を流し込みその場を誤魔化した。
  「お、いい飲みっぷりじゃ。柳生おかわりしてやって」
  「はい」
 柳生はまた人のいい笑顔を見せ、手塚が置いた空のグラスを取った。



  「…ったく。弱いなら弱いヤツの飲み方っつーのがあるだろうっての」
 仁王はブツブツ言いながら部屋のキーをテーブルの上に放り投げた。とりあえず歩きはするものの手塚はほとんど意識が無く、肩を貸してやらないと座り込んでその場に倒れて寝てしまいそうだった。
 柳生のバーで飲んでいたら、普段あまりしゃべらない手塚がどんどん饒舌になってきた。聞き上手な柳生が相手になっているからかと思って、仁王はあまり気にしていなかったが、そのうち話し声がピタと止んだかと思ったらそのままカクンと手塚は寝てしまった。いくら揺さぶっても名前を呼んでも起きないので、手塚の家を知らない仁王は仕方なくタクシーで自分の家に連れてきたのだ。
 小さいキッチンのついている部屋の奥の部屋を寝室にしている。朝起きた時のままメイクされていないベッドに、手塚を肩からドサリと落とすように寝かせた。わざと荒っぽくしてみたのに、手塚はやっぱり目を覚まさない。
 仁王はすやすやと眠る手塚の額の髪を手のひらでかきあげ、メガネを取ってやった。見かけはともかく、無防備な寝顔はとても同じ年だとは思えない幼さが残っていた。
  「…世間ズレしてない顔やのう。真面目なお堅い手塚クン、たまには今日みたいにハメを外すのも、いいじゃないデスカ?」
 仁王は眠っている手塚に話しかけ、ふ…と鼻を鳴らして笑うと、そっと引き戸を閉めて寝室を出た。





 手塚は誰かの話し声が聞こえてきたような気がして目を開けた。真っ暗な部屋、いつもと違う寝心地、いつもと違うシーツの匂いに驚いて声も出せずにガバと起き上がる。見回すと、やはり自分の部屋ではなく誰かの部屋だった。ドアの隙間から隣の部屋の明かりが細く洩れてきていた。その時やはりさっき聞こえてきた声がドアの向こうから聞こえてきた。
  「俺は…行けないぜよ」
 ―――仁王の声だった。
 手塚はここが仁王の部屋だとそこで気づいた。一緒に酒を飲んでいたはずだが途中からの記憶がない。きっと酔いつぶれて仁王の世話になったのだろう。自分の醜態を想像して思わず舌打ちした。
 そして「行けない」という仁王のセリフが手塚は気になった。仁王の声だけしか聞こえてこないところを考えると、誰かと電話をしているのだろうか。手塚はそっとベッドから足を下ろして音をたてないようにドアの近くに歩み寄った。
 1センチほどの僅かな隙間から隣の部屋を覗くと、仁王はこちら側に背中を向けやはり思ったとおり電話をしていた。手塚が寝ている間にシャワーでも浴びたのか、いつもならくくっている髪は解かれ、まだ少し濡れているように見えた。
 仁王の電話の相手はおそらく女だと手塚は感じた。そしてなんとなく胸がチクリとした。
  「お前が本当に会いたいのは俺じゃないはずだ。…いい加減素直になれって。女は素直な方がカワイイぜよ」
 優しく叱る仁王。やはり相手は女のようだ。手塚は自分に向けられた言葉でもないのに、身に覚えのあるような、気まずいような気持ちになった。それと同時に、なぜだかさっきよりも胸が強く痛むのを感じた。
  「…ははっ、ああ、その時は朝まで一緒に飲んでやるぜよ。…じゃ、な」
 仁王が電話を切りそうになったので、慌てて手塚はベッドに戻り、壁に向いて横になり目を閉じた。冷蔵庫を開閉する音が聞こえてきたら、間もなく寝室のドアが静かに開いた。
 仁王は足音を立てないように気遣って、そっとこちらに歩いてくる。そして背中側に仁王の気配。ケットが捲られベッドスプリングがたわみ、隣に仁王が座った。…が、いつまでも寝転ばない。

  

何をしている
何を考えている

背中が熱い


  「…起きてんだろ?呼吸が速いぜよ」
  「…っ」
 ククと仁王は喉の奥で笑った。
 やはり仁王は騙せない。介抱して泊めてもらっている礼も言わなくてはならないので、手塚は仁王の方にゆっくり寝返った。暗いが街灯か月明りかで、薄いカーテンを通して少しだけ光が入ってきていた。
  「気分はどう?」
 仁王は座ったまま手塚を見下ろし眉をちょっとあげて訊くと、手塚の髪を撫でた。
  「…悪くない。どうやら酔いつぶれて、世話をかけたみたいだな。すまない」
  「悪酔いした感じではなかったけどな。楽しそうだったぜよ、お前。あんなしゃべるとこ初めて見た、ははっ」
  「…あんまり覚えてないんだけどな」
  「泣き上戸よりはいいよ、数段ね」
 仁王は手塚に顔をゆっくりと近づけてきた。髪を撫でていた方の腕を曲げ肘をつく。
  「何…っ」
 仁王は反対の手の人差し指の先だけ手塚の唇につけ、言葉の先を制した。
  「くだらない質問をするつもりならやめんしゃい。これから俺が何をしようとしてるかくらい、わかるだろ?」
  「…キス、しようと思ってるなら、やめろ」
  「あはっ…!素直じゃないね。というより、まだ常識に縛られてるんやのう。ま、お前の場合そういうのも悪くないけど」
 言い終わらないうちに、また仁王は顔を近づけてくる。手塚はケットから腕を出して仁王の肩を掴んで、これ以上近づけないように力を込めた。Tシャツさえも着ていない仁王の肩の筋肉と肌の感触が、手のひらから直に伝わってくる。
  「ふ…っ、ふざけるな。お前には遊びにもならないことでも、俺にとってはお前とキスするのは常識の範囲をはるかに超えてるんだ。こないだのことだって、俺は赦してはいないんだからっ」
  「…虚勢を張りたいなら相手が悪いぜよ。本当は俺にもう一度キスして欲しくて仕方がないくせに」
  「そんなはずないだろうっ。まったく…お前はどこまでポジティブにできているんだ」
 仁王に対して呆れたようなセリフを言った。が、手塚は内心ドキリとした。キスして欲しいと思った自覚は本当になかったが、またキスされるんじゃないかという思いが確かにいつも心のどこかにあった。
  「こないだキスしてから、お前は俺にまたどこかでキスされるんじゃないかって思っていたはずだ。会議室で、エレベーターの中で、二人きりになるとお前は急に意識していた。…なぜなら、それは俺のキスを待っていたから。違う?」

  
…違わない。
  でも、認められない。認めるわけにはいかない。
  そういう気持ちを“キスされるのを待っていた”というのならば。


 反論する言葉がするりと口から出てこない。手塚は唇をキュと結んだ。
  「ならばお望みを叶えましょうか。せっかくの二人きりのチャンスですから…」
 仁王は芝居じみた言い方でそう言うと、手のひらを手塚の両頬に添え、思わず顎を引いた手塚の顔をそろりと上向かせた。それから、自分の両肩を掴む手塚の手首を取り首に回した。

 そして。

  「…っ」
 キスか、と思わせて目元に口づける仁王。絶妙なタッチで目頭、まぶた、まつ毛と柔らかい唇を移動させていく。じわりと手塚の目じりに生理的な涙が滲む。

待っていたのだろうか、この唇を…

 一瞬そんな考えが脳裏を過ぎった時、仁王の唇は手塚の唇に辿りついた。唇を軽く触れ合わせたかと思うと、一旦離しまたすぐに触れる。そして、キスを深くさせながら手塚の髪を梳いていた手を移動させ、ふわりと手のひらで両耳を塞いだ。
 静かな夜、なのにさらに音が遮断される。

  …それだけじゃない。

 唇と唇が触れ合い、舌と舌が絡み合う、その艶めかしい水音が全て手塚の耳の中に響いていた。仁王のキスが紡ぎだすエロティックな音は手塚に封じ込められている。
  「…んっ…ふ……っ」
 恥ずかしさに思わず息を継ぐと、その声までもリアルに自分の耳に響いてしまう。
 仁王の唇から流れ込んでくる快感に翻弄されそうになる。何かに縋りたくなって思わず首に強制的に巻きつけられた腕を動かせば、指先に触れてくるものは仁王の湿り気を帯びた髪の毛。
 指を挿しいれ、曲げて、掴んだ。


マズイ
     これ以上やられたら   

…堕ちる




 頭の芯に警鐘が鳴り響く、静かな月明りの夜だった。




(06.5.24)



おわり


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