キスをするその前に

  「ん…」
 手塚は寝返りを打つ。覚醒までのまどろみの波間で考える。
 ―――俺は…今どこにいるんだったっけ…?
 手塚は今、酔いつぶれてしまって部屋のベッドを独り占めしていた。ちょっとしたミスで、出張先のホテルをダブルの部屋にしてしまったのだ。それもパートナーは仁王。
  「ん…。……ん?」
 何やら急に意識を取り戻したのか、手塚はベッドから勢いよく上半身を起こした。しかし…。
  「わっ!」
 ドーンと思いっきりベッドから落ちてしまった。
  「おい、大丈夫か手塚?」
 仁王は心配そうに声をかけた。
  「いたたた…」
 手塚は肘をついて仁王の声のする方を見た。手塚が寝ている間も仕事をしていたようで、窓の傍のテーブルでパソコンを開いていた。
 ああ大丈夫、と手塚は言おうとして絶句する。ベッドから落ちたのもそれが理由だったのだが、手を動かし難いと思って見たら、手塚の両手の親指が紐―――たぶん仁王の髪紐だと思われる―――で結んであったのだ。
  「…なんだこれ」
 手塚はそれを見て呟き、何度か手を動かし解こうとしたが解けず、仁王の方を見てもう一度同じ言葉を繰り返した。
  「なんだ、これっ!」
  「んー?」
 仁王は素知らぬ顔で、パチパチとリズミカルにキーボードを叩く。よく見れば仁王はシャワーを浴びたらしく、腰にバスタオルを巻いているだけで、何と言うか、どうも…下着を着けているかも怪しい出で立ちだった。
  「…鳩?」
 仁王は画面から目を離し、手塚が突き出した両手を見て言った。手塚の手は親指同士が結びつけられてるので、手を開けばたしかに鳩の影絵でも作っているように見えた。
  「手の形が何に見えるかを聞いているんじゃないっ。なんでこんな嫌がらせみたいなことするんだっ。早く解けよっ」
 手塚は仁王の方にもっと両手を突き出した。仁王はどんな結び方をしたのか、やっぱり手塚がどう手を動かしても解ける様子はなかった。仁王はチラと手塚を見ると、ぷうと頬を膨らませ一言言った。
  「イヤ」
  「あ、やっぱり部屋のこと怒ってるんだろう?だったらこんなつまらないことしないで、そう言えばいいだろう?いいよ、俺がどこか別のとこに泊まるから」
  「違ーう。手塚ったら一人で酔いつぶれて勝手に寝ちゃうんだもん」
 仁王はまたパソコンのモニターに目を戻し、冗談たっぷりにそう答えた。
 手塚はやっと床から起き上がって、仁王の方に歩み寄った。
  「こんな、出張先に来て酔いつぶれてしまったことは…謝る、すまない。でもっ、これはどういう嫌がらせだ?」
  「嫌がらせじゃないって」
  「…ふざけるな。いいか?悪ふざけは悪意のある嫌がらせだ」
 手塚がそう言った途端仁王は立ち上がり、手塚の手首を片方掴んだ。あの月のように表情を変える瞳が、真っ直ぐに手塚を見据えた。
  「嫌がらせじゃないって言ってるだろ?じゃ、続きしてくれる?してくれるんなら解いてやってもいい」
 言いながら仁王はぐいぐいと手塚を押して、またベッドの前まで戻してしまった。
  「続きって何のだ?」
 そう言った手塚の肩を、仁王はドンと些か強く押してベッドに座らせた。
  「さっきさ、お前から俺をベッドに引き入れて、熱ぅ〜い口づけをして、さぁこれから…って時に寝やがった。ホント失礼なヤツだ」
  「な…っなっ…嘘だろう?」
  「ホント、ホント。俺もうマジになりかけたんだから」
 仁王は自分を見上げる手塚の足の間に膝をつき
  「この火照ったカラダをどーにかしろ」
 言いながら、顔を近づけた。
 手塚は思わず体を引いたのだが、親指を拘束されてるため体を支えきれず、ベッドに仰向けに倒れてしまった。仁王は手塚の顔の横に両手をついた。
  「おっ、俺はっ!」
 手塚は仁王の胸に手をつけ、それ以上の接近を阻みながら叫んだ。
  「この際だからハッキリ言っておくが、俺は、お前みたいに誰とでも体の関係を持ったりするのは好きじゃない。それに…第一、男とそういう…キスとか、それより先をするつもりは無い。お前のことは嫌いじゃないが、こういうことをするのなら今後付き合い方を考えさせてもらうっ」
 手塚が言い切ると、仁王はふんと鼻で笑い
  「俺がいつ誰と体の関係を持ったって言うんじゃ?」
  「そ…それは、そんな細かいプライベートなことは知らないが、お前はアレ、抱かれたい男とか、そういう女性関係にだらしない軽いポジションじゃないかっ」
  「うわ、ひっどい言われよう!」
 仁王はゲラゲラと笑い出し、それからふと真面目な顔をして手塚を見下ろした。仁王のこういう瞳が、手塚にとっては一番苦手だった。なんだか心の中を見透かされているような気がして。
  「じゃぁ、お前は誰とでも結婚した?」
  「は?」
  「お前の言ってることをベースにすりゃ、そういうことだろ?女は、自分と手塚が結婚してないから“結婚したい男”に選ぶ。結婚したなら、結婚したいとはもう思わない」
 仁王の言うことはもっともで、手塚は二の句が継げなくなった。言われてみれば、仁王がトップでランクインしてるのは“抱かれた男”じゃなくて、“抱かれたい男”なのだ。仁王が女にだらしないなどという事には、全然ならない。
  「だけどっ」
 手塚はなおも言い募る。どうしても、どうしても仁王が軽くないと認めるわけにはいかないことがある。
  「お前は、俺に…いつも……」
 そこで手塚は口ごもった。続きを口にするのも恥ずかしい。いつも俺にキスをしてくる、だなんて。仁王が誰とでも挨拶がわりにキスすることに躊躇しないとしても、自分に対する執着はなんだか違う気がすると手塚は思っていた。仁王のキスは、挨拶にしてはどう考えてもいい加減じゃない。テクニックがあると言ってしまえばそれまでなのだが、感情が溢れんばかりに込められている気がしてならない。それはなんとしても認めるわけにはいかないのだ。
  「…俺が、お前にいつも、何?」
 仁王の声はそれこそいつもと違う。いつもより静かで、語尾が甘く艶を帯びていて、どうしてか分からないけど胸が高音に鳴る。あの瞳はもう今は見れない。きっと射抜かれる…そんな予感がして、手塚は僅かに視線をそらした。
  「俺は、そりゃあ、ずっと若い頃は、それほど好きでもない女と寝たりした…こともある。でも、もう今は違う。そういうのはカッコ悪いって思ってやめた」
 仁王は少し照れ笑いしながら、言いにくそうにそう言った。手塚はそっと視線を戻し、改めて仁王を見た。仁王に自分が魅力を感じるところはこういうところなのだ。いつも等身大で裏表ない性格で、時に自分のマイナスになるかもしれないことでも、包み隠さず本音で話す。それが却ってプラスになることを、本人も気づいてないのかもしれないが。
  「今は、自分が好きだと思う人にしかこういうことせん。…で、お前は?」
  「俺も、そうだ。俺はずぅっと前からそうだが?」
 一緒にするなと言わんばかりに、手塚はフンと鼻をならす。さり気なく仁王に“手塚は唯一の存在”と告白をされてるとも気づかず。
  「…待っとっても始まらんはずじゃ。これは相当……ニブイ」
  仁王は苦笑いして、手塚のシャツのボタンを外し始めた。
  「わわわっ」
  「お前もシャワー浴びて来いよ。明日もまだ仕事残ってるし、もう寝よう」
  「だからってなんで、俺の服を脱がす!?」
 手塚はジタバタと体を動かした。
  「だって親指がそんなんじゃボタン外せないだろうなって。単なる親切じゃ、親切」
  「だったら親指の紐を解けよっ」
  「聞こえなーい」
 仁王は笑いながら、手塚のシャツのボタンを外し終える。
  「お前、肌、綺麗やのう…」
 手塚の首から鎖骨、そして胸元に手のひらを這わす仁王。
  「わーっやめろーっ」
  「な、さっき俺が言ったこと覚えとる?」
  「もう何でもいいから離れろよ…っ」
 思いもよらない仁王の行動に、体の力が抜けてしまいそうになる。仁王の指先から与えられる、これを快感と認めざるをえなくなる。身動きもできず、拒む言葉も浮かばなくなりそうだった。
 そしてふと胸元から仁王の手のひらの温度がなくなったと思ったら、仁王は手塚の体から退こうとしていた。助かったと思いながら、心のどこかでコレで済むはずがないと仁王を疑い、手塚はその一挙手一投足を目で追った。
  「お前も…」
 ベッドの横に立ち上がった仁王が言う。乱れた髪をかきあげながら、視線は手塚から離さない。それに至って真面目な表情だった。
  「お前も俺も、自分が好きだと思う相手にしかキスしない、もちろんそれ以上も…、だろ?」
 手塚は返事の代わりに頭を上下させた。
  「俺は、お前にキスしたかったからそうした。何が言いたいかそれで分かるだろう?前から言ってるけど、お前は俺のことが好きなはずじゃ。だから、できるだけ早めにお前が俺を好きになってる自覚を持て。じゃないと手を出しにくい」
 そう言うと、仁王はやっと手塚の親指の紐を解きだした。
  「どうせコレがあったらシャツは脱げんしのう」
  「…」
 仁王は解いた紐を口にくわえ、両手で髪を後ろに束ねる。その仕草を見ながら、手塚は自分の気持ちが分からずにいた。不思議と仁王とのキスに嫌悪感がなかったことは、もう認めている。だけどそれが仁王を好きだということには、どうしてもつなげるのが怖い。心が…定まらない。
  「どうした?意味わからんかった?」
 仁王は黙り込んだ手塚の顔を覗き込んだ。
  「…ろよ」
  「え?」
  「好きだって、言わせてみろよ俺にっ。そんなに自信があるんだったら、惚れさせてみろよっ」
 手塚はそう怒鳴ってドスドスと足を鳴らし、バスルームに入って行った。
  「聞き分けのない駄々っ子か…それともただの天然小悪魔か?」
 勢いのいい水音が洩れ聞こえる部屋で、仁王は眉を寄せて手塚の宣戦布告ともとれる言葉をどう料理すべきか、思い悩むのだった。



(06.12.4)



おわり


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