ポーカーフェイスの恋人

 足音を吸収するカーペット敷きの廊下を手塚がファイル片手に歩いていると、正面のシステム室から仁王が出てきた。
 お互いあっというような表情をしたが、先に手を挙げて笑顔を見せたのは仁王の方だった。手塚も仁王に応えようと軽くファイルを持った手を挙げかけたら、いきなり音も無く猛ダッシュをかけて近寄って来た仁王に、肘あたりを掴まれた。
  「…!」
 いつも仁王の行動は予測不可能。今更驚くこともないが、さすがに肘をつかまれたまま後方に引っ張られたとなると、転びそうになって少し焦った。
 体勢を直しつつ、仁王の引っ張るがままについていくと、給湯室横のスペースに連れ込まれた。この場所は、ビルの清掃員がよく用具の一時置きに使用しているのを見かける。
  「なんだ?」
 背中を壁につけられ、まるでチンピラが因縁を付けているような仁王の行動に、手塚は少々不機嫌に言葉を発する。
  「…たとえば、消費期限が本日限りのケーキがあったとして、お前はどうする?」
  「……。食べ…れそうなら食べるが、なんだったらお前にやるが?」
  「何の話じゃ」
  「そのセリフ、そっくりそのままお前に返そう」
 はぁ、と手塚がため息まじりに言うと、仁王は少し唇を尖らせた。
  「じゃあ、このケーキが食べたいなぁと思うんだけど、自分一人じゃ大きすぎるって時、お前はどうする?」
  「一人で食べきれない大きさなら、初めから手をつけない」
  「一口くらい食えよ!」
  「何の話だ!?もう行くぞ」
 時間の無駄とばかりに、手塚が仁王の手から体を離そうとすると、グイと仁王に肩を掴まれる。
  「…今日、誕生日って総務の子に聞いたぜよ。会社帰り、ウチに寄りんしゃい」
  「……最初から素直にそう言え」
  「ったく、本当お前には調子を狂わされるぜよ」
 手塚がフンと鼻を鳴らし、軽くファイルで仁王の髪をパサと叩くと、仁王の唇が手塚の唇に寄る。
 浅く唇を重ねた時ガヤガヤと廊下の奥から人の声がして、手塚は慌てて持っていたファイルを開き、仁王はソレを覗き込む。
  「おや?どうしたんですか、仁王くん。…あ、手塚くんも」
 上品な言葉遣いで声をかけてきたのは、2人と同期で仁王と同じ部署の柳生だった。
  「ああもう昼休みか。そういや腹へったと思ってたわ。俺もメシ食いに行こうっと。んじゃな手塚」
 仁王は、さっきまで垂れ流しだった官能的な甘いオーラをすっと引っ込め、手塚から離れて柳生の方に向かう。
  「手塚を口説いとった」
 仁王は柳生に冗談めかして言うと、柳生はどう受け取ったのか眼鏡を光らせチラと手塚を一瞥した。
  「そうですか、カツアゲじゃなくて安心しました。口説くと言えば、総務の女子社員を口説いていたと噂になってましたよ。気をつけないと仕事に影響しますよ」
  「あっ、僕もその噂聞きましたよ!」
 新人も嬉々として話に加わってきた。
  「“噂”じゃろ?」
 仁王はニヤリと笑う。
  「…そうですね、失礼ながら噂の彼女は“違う”ような気がします。何がどうなってそんな噂になったのかわかりませんが、社内で仕事中に妙なオーラを出すのもほどほどになさってくださいね」
 柳生は、すでに逆向きに歩き出していた手塚にも聞こえる程不自然な大きさの声で言うと、ポンと仁王の肩に手を置いた。
  「今日は7時からの特番を家で観るぜよ!」
 いきなり仁王は、廊下中に響き渡るほどの大声で叫んだ。柳生は俯き加減に笑いを噛み殺していたが、他の同僚は、その言葉を受けて新番組や近頃人気の女性タレントについて話題を移行させていった。
 手塚はチラと腕時計を見ると、「7時に家か…」と口の中でつぶやいて足早に廊下を進んで行くのだった。

(08.10.7)



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