師走とはよく言ったもので、何故かこの時期になると急になにもかもが忙しくなってくる。手塚も跡部も例外ではなく、ここのところ連日夜遅くまで仕事をしていた。
特に跡部の方は、いままで子会社の社長をしていたが、来年度いよいよ本社の専務になることが内定したようで、いろいろと大変そうだった。年内に内辞がでるらしいことを、手塚は跡部本人からではなく報道で知った。
今朝も跡部のマンションを早く出て、近くのカフェでモーニングを食べながらパソコンを開く。すると、外貨や株のニュースと並んで、また跡部の名前が出ていた。
手塚は跡部の名前を見つけると小さくため息をつき、そして今日の日付を確認し、微笑を隠すようにコーヒーを飲んだ。
急に冷えこんだある夜。
仕事を終えて自宅に帰ろうとしていた手塚に、跡部が飲みに行こうと誘ってきた。先にマンションに車を置きに行き、そこからタクシーで待ち合わせのバーまで行く。店に入るともう跡部は来ていて、カウンターのいつもの席に座って飲んでいた。
上着をクロークに預け、跡部の方に向かう。
「待たせたな」
手塚の声に気づくと跡部はふっと笑い、馴染みのバーテンに手塚の分を作るように言った。
「外で飲むのは久しぶりだな。何かあったのか?」
手塚がコースターに置かれたグラスを跡部の目の前に軽く上げた。跡部もグラスを同じように少しあげると
「いいや。たまにはデートもいいかと思っただけだ」
と笑い「これから少し忙しくなるしな」と呟いた。
「そうだな。俺も来年には上場したいし、ここらが踏ん張りどころだと思ってる」
手塚が言うと、跡部は満足そうな顔をしてグラスを空けた。
「おい、だけど年末年始は何がなんでもスケジュールを空けとけよ。仕事もナシだぜ」
「?…ああ、年末年始くらい仕事は休もうと思ってるが…。何かあるのか?」
手塚は小さく切り分けられた低い三角柱のカマンベールチーズをピックで刺し、口に運ぼうとした。跡部は手塚の手首を掴み自分の方に引っ張り、手塚の口元まで来ていたチーズをぱくりと食べてしまった。
「……お前なぁ…」
跡部のグラスをさげに来たバーテンがくすりと笑い、何かお作りしましょうかと聞いてきたので、跡部は同じものを頼んだ。
「正月はハワイに行くぞ」
「ああ」
適当に相槌をして、手塚はもうひとつチーズをピックに刺して、固まった。
「はぁ!?」
跡部はもぐもぐと口を動かして、何か問題でも?という顔をした。
「有名人はやっぱり正月はハワイだろ?」
「何もハワイでなくともいいだろう?」
「ああん?貴様、ハワイはいやなのか?ならドイツか?そんなにドイツが好きか?どっちなんだっ?」
「うるさいっ。ワケのわからんことを言うなっ」
手塚は手のひらを額に当て、長い指を前髪に差し入れた。
「どこに行きたい?言えよ。カナダでスキーもいいぜ。いくらでも変更きくぜぇ」
跡部はからかうように笑い、新しいグラスを傾け前髪をかきあげた。
温かいコーヒーをもう一口飲んで、手塚は跡部の情報をネットから知る。‘クリスマス頃、人事が発表される予定’…か…。ずいぶん煮詰まってきてるな…。
手塚はコーヒーを置き、書類2枚に目を通すと、パソコンを閉じ店の前に駐車していた車に乗り込んだ。
今日も忙しくなりそうだ。
手塚の思ったとおりその日は多忙だった。すべて仕事を終了する頃には、深夜に近い時間になっていた。夕方部下が買ってきてくれた弁当は、結局食べる時間が取れずそのままになっていたので、それを持って跡部のマンションに行くことにした。
部屋に入ると、今朝自分が出た後にホームキーパーが片付けに来てくれたようでキレイになっていた。ということは、また今日も跡部は来ていないということだ。近頃、自分の家みたいに手塚だけがこの部屋に帰って来ていた。
忙しいのはわかるが、体は大丈夫だろうか?自宅に戻っているのならいいのだが…。
腹は空いてるのだが、それ以上に疲れていて食欲がない。先に風呂に入ろうと思い、バスルームに行き勢いよくお湯を出す。
バスタブに湯が入る音で、手塚はソファにかけた上着に入っている携帯が鳴っていることに気づかなかった。
「っくそ…っ。こんな時にどこに行ってやがる、手塚ぁ」
跡部は苛立たしく終話ボタンを押すと、デスクに携帯を放り投げた。短い毛足の絨毯が敷かれた部屋の中をウロウロ歩いた。高層階にあるこの部屋の大きめの窓から、もう高く昇った月を見た。
その時、プーっと内線が鳴った。
―――『社長の会議は終了しました。それから連絡で、明日は朝一の会議に出席するようにと、今日はとりあえず帰るようにとのことですが』
秘書の声だった。
彼は専務に内々定した頃専属になってもらい、ここのところよくしてもらっている。今日もこんな遅い時間まで会社にいるのに嫌な顔ひとつせず働いてくれた。自分が帰らなければ彼の仕事が終わらないことにやっと気づいた跡部は、ちっと舌打ちした。
「すいません、気づかなくて。今日は社長のおっしゃる通り一旦帰りますので、あなたももうあがってください。遅くまでお疲れ様でした」
―――『ですが……』
言いかけた言葉を遮るように、跡部はつとめておだやかな口調で言った。
「大丈夫です。また明日も…明日からは、今日以上に大変になることが予想されます。早く帰ってゆっくり休んでください」
―――『…わかりました。ではマンションまでお送りしましょうか?』
「いや、自分で運転して帰ります」
―――『そうですか。ではお車は表に回しませんので…』
「……気遣いありがとう」
跡部は内線を切ると、もう一度手塚に電話した。
やはりでない。
仕方ない、あいつも忙しいんだろう…。まあ電話をしてこないところをみると、アイツのところにはまだ何も起こってないんだろうな。
跡部は上着を掴んで、部屋のライトを消した。
ガレージから車を出すと、やはり数人のカメラを持った男がいて、運転席の跡部に向かってフラッシュをたいた。跡部は眉を寄せ舌打ちをしながらそこを通り過ぎると、マンションの方向へハンドルを回した。
手塚の車をマンションのガレージに見つけると、跡部は急いで自分の車をとめ、転びそうになるくらい焦ってエレベーターまで走った。
一秒が一分にも感じられるとは、こういうことなのだろう。エレベーターが最上階まで行くのに、こんなに時間がかかったか?
扉が開ききらないうちに隙間から体を滑り込ませ、箱の中から抜け出すと玄関のドアを開ける。
ライトが点いているから、手塚はまだ起きてるようだ。
靴も投げ出してリビングまで急ぎ、ドアを開けるとちょうどキッチンからマグカップを持って出てきた手塚を見つけた。
「…手塚ぁ…!」
「久しぶりだな跡部。どうしたんだ?そんなに急いで。いつも勝手に部屋を使わせてもらってすまん。助かっている」
「そんなこたぁ、どうでもいい。よく聞け。大事な話だ」
跡部は手塚の両肩に両手を置いた。
「…何だ」
ただならぬムードに、手塚は淹れたばかりのコーヒーをテーブルの上に置いた。そして真っ直ぐに跡部を見る。跡部の目には、怒りや悔しさ、それにどことなく安堵に似たものがごちゃ混ぜになったものが浮かんでいた。
「…いわゆるゴシップ誌に俺達の記事が出る」
「お前の記事ならいつも……ん?‘俺達’って何だ?ゴシップ?」
「そうだ。‘俺達’だ」
「意味がわからん。ちゃんと落ち着いて説明しろ」
手塚は肩に置かれた手をゆっくり外すと、ソファに座るように促した。
「で。俺達の記事って何だ?」
どうせ、中学時代の話だろう。当時もかなり話題になったからな。そう思いながら手塚は短く息をはき、ソファの背に体を預けると跡部に問う。
「俺達が…デキてるって内容の記事だ」
跡部が静かに言うと、さっきとは逆に手塚が弾かれたように身を乗り出した。
「…なに…?おい、どいういうことだ!」
「写真もあった…こないだバーで飲んだ時に撮られてたみたいだ」
跡部が専務になるにあたり、各方面で得をする者もいれば損をする者もいる。若干25歳でその地位を持つことを面白く思わない者も、当然いる。
「…リークか…誰が?内部の人間か?」
「それはわからねぇ」
跡部の父、つまり社長宛に記事のコピーが届いたのは今朝。そしてあと数時間でその記事の載ったゴシップ誌が店頭に並ぶ。この時期にそういうスキャンダラスなニュースが出回ると、跡部の企業も、当然手塚の仕事にも影響がでる。
しかも……男同士だ。
「当然否定したんだろう?」
手塚が聞くと、跡部は黙って手塚を見つめ首を横に振った。
「…お前、気はたしかか?何を考えてるんだっ」
手塚は跡部の胸ぐらをネクタイごと掴んだ。
「てめえは否定しても良かったのかよっ!」
跡部は手塚を睨み、手を振りほどきもせず叫んだ。
「…っ」
ばっと捨てるように手を放した手塚は、言葉を失い視線を逸らした。
「…今は…気持ちがどうとか言っている場合ではないだろう…。お前は…自分の立場がわかってるのか」
手塚は唇を噛み、ひとつひとつ絞り出すように言葉を発する。
おそらく記事が出ると同時に株にも影響がでるだろう。日本の経済に影響を及ぼす、そういう立場の人間なのだ跡部は。
跡部は、やり場のない苛立ちをソファのアームレストに向け、何度もこぶしを叩きつけた。
「…とにかくこうしてはいられない。今夜は会社に泊まる。それから、もうここには………来ない」
手塚がそう言うと、跡部は目を見開き振り返った。
「待てよっ」
立ち上がりかけた手塚の腕を引っ張り座らせると、頭を引き寄せその唇に自分の唇を押し付けた。手塚は跡部の胸を押し返すが、跡部の激しすぎる熱情に負けてしまいそうになる。
「……せめて…せめて今夜だけ…最後の夜だから…最後の夜に……するから…っ」
跡部の切なすぎる掠れた低い声は、手塚の胸を締め付けた。
ベッドの上で、きつく抱きしめあって時々唇を重ねる。このまま眠りにおち、起きれば全てが夢ならいいと子供じみたことを本気で思った。
「俺がもっと仕事ができれば誰にも文句を言わせねえのに…」
跡部は手塚のシャツの背中をぎゅっと握った。
「……」
「俺は覚悟してたんだぜ?堂々とお前を恋人と呼ぶことをな」
「……」
「…だが、考えたら貴様は一度も好きとは言わなかったな」
跡部はふっと笑った。
「……言わなければわからなかったのか…?」
手塚が言うと、跡部はくっくっと肩を震わせて笑った。
「処女じゃあるまいし。……てめえの体が饒舌だったぜ」
「…跡部、俺はお前が…」
「バカヤロウ!今さら余計なこと言うなっ……決心が揺らぐだろうが…っ」
跡部は手塚をまたきつく抱きしめた。
「明日からまた別々に歩いていくんだ……これからは…友達として…。そうだろ?手塚」
まるで自分に言い聞かせるように跡部は声を低く震わせる。
「ああ、そうだ。それが一番いいんだ」
そしてふたりは抱き合ったまま、深い海の底にズブズブと吸い込まれるように眠りについた。
次の朝、身支度を整えた二人は、一緒に玄関をでた。
「もしかすると、表に記者がいるかもしれねえ。お前は右へ行け。その方が顔が撮られにくい」
「やっぱり別々に出ないか?」
「‘友達’だ。なにもやましい事はねえ、そう言ってやれ。ああん?」
ガレージに来ると向かい合わせにお互いの車が停まっていた。
「じゃあな手塚、お前の活躍を期待してるぜ」
「ああ、俺もお前に期待している。いつか高みで会えるように…」
手塚がこぶしを差し出すと、跡部は同じようにこぶしをそこに押し付けた。車に乗りエンジンをかける。ライトを光らせて跡部が出発の準備ができたことを知らせてきた。
シャッターが開くとやはり数人男がいて、カメラを二人の車に向けていた。跡部は左に出ると、手塚は言われたとおりに右に出た。
跡部が外国車特有のけたたましいクラクションを鳴らす。それを合図にふたりは同時にアクセルを踏んで車を出した。
なにごともなかったように黄色の信号をするりと抜け、まだ車の少ない早朝の道を逆向きに進んでいった。
(04.12.11)
おわり
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