この胸の想いを君に見せられるなら

 手塚はシャワーを浴びた後ソファに座り窓の外を眺め、物思いにふけっていた。
 今日の午後から海外に出張だという跡部に、当分会えないんだから見送れとわがままを言われ、社長の特権で仕方なく昼過ぎから出勤することにした。夕べも遅くまで何度も求め合い、いつまでも離れられなかったから、実のところそんなに迷惑な話でもなかった。
 濡れた髪を乾かそうともせずぼんやりと外を眺めている手塚を見つけ、跡部は少々複雑な気持ちでいた。
 先日手塚が見合いをしたという話を酔った本人の口から聞いたのだが、それ以降ものすごく気になりながらも詳しく聞けずにいた。本当ならば、どんな人とどこでどういういきさつで…と詰め寄りたいところだったけれど、ガラにもなくそれが出来ずにいるのだ。聞けば手塚はきっと答えてくれるだろうと思いつつ、何故自分から話してくれないのだろうかと、少し考えていた。
 あれから時々手塚は、今のようにぼんやりしていることが増えたように思う。


  「手塚、遅くなったけど朝食にしようぜ」
 手塚が跡部の呼びかけに振り向くと、いつの間にか手伝いの者に用意させていたクロワッサンやスクランブルエッグ、サラダにヨーグルトなんかがバルコニーのテーブルに並んでいた。
  「あ、ああ」
 そんなにぼーっとしていたつもりはなかったのに、全く物音に気づかなかった自分がなんだか不思議で、手塚はそそくさとバルコニーに出た。
 風が気持ちよかった。
 天気もいいし、とても気持ちのいい風のおかげで、少し気持ちが上向きになってきた。手塚は、バルコニーで朝食を摂ろうと用意してくれた跡部をちょっぴり評価したい気分だった。時々突拍子も無いことをするが、こういう素敵にイレギュラーなことはいつでも歓迎だと。
  「“遅い朝食にはビールを”…とかいう曲なかったっけ?」
 言いながら跡部はテーブルに外国のロゴが入った缶ビールを置いた。
  「おいおい、遅いと言ってもまだ午前中だぞ。それにお前はこれから機上の人かもしれないが、俺はこの後仕事があるんだからな」
 前言…撤回、手塚は眉を寄せあからさまに不愉快さを顔に出した。
  「いーじゃねーの、一杯くらい。これはそんなにアルコール度は高くねえんだし、仕事に行くまでには醒めるって」
 跡部は手塚のすぐ横に腰を下ろし、機嫌よくビアグラスに黄金色の液体を小気味良い音をたてながら注ぐ。
  「ほら、乾杯」
 跡部は手塚の前に置かれたグラスに自分のグラスを軽く当てて強引に乾杯し、ウインクした。
  「……ったく」
 一口だけでも飲めば跡部の気も済むだろうと思い、手塚は渋々グラスを持った。ビール独特の苦味のある白い泡を唇につける。明るいうちに飲むアルコールは、なんだかいつもとちょっと味が違う気がした。
  「手塚…」
 跡部が名前を呼びながら、手塚の右手を取り自分の胸に置いた。
  「何?」
  「俺の鼓動、感じて」
 いつになく真面目な顔をして、跡部は手塚を見つめる。二人の間を風が通り、前髪を揺らす。
  「お前が俺の前から居なくなることを想像しただけで、胸が張り裂けそうになる。いつもそばに居て欲しい、朝も夜も。お前のいない人生なんて考えられない」
  そこまで跡部が言うと、手塚は一瞬きょとんとして。
  「…なんか、プロポーズみたいだな」
  「ああそうさ、プロポーズだぜ。交際宣言はしたけども、そういえば本人にプロポーズはしてなかったなと思って」
 しれっと言う跡部に手塚は一瞬怯んで絶句しかけたが、少し恥ずかしくなったのか眉を寄せて軽く睨んだ。
  「ふん、バカらしい」
 言いながら、手首をつかまれたままだった跡部の手から自分の手を離そうとしたが、きゅっと力を込められ放してもらえない。
  「待って…ほら」
 跡部が言うので聞くと
  「俺、今すごい緊張してドキドキしてるぜ」
  「…緊張?」
 確かに跡部の言うとおり、さっきよりも心臓のリズムが早くなっているのが手のひらを通してわかる。それを確認した途端、急に自分もドキドキして、なんだか焦ってきて。
  「緊張もするぜ、なんせ俺様のプロポーズを断る可能性のあるのは、宇宙でお前ただ一人だからな」
 跡部が冗談めかして言いながら眉を上げて、だろ?というような顔で覗き込んできた。
  「…愛してるぜ、手塚」
  「もういい」
 “愛してる”という言葉は、しょっちゅう聞いている。遡れば中学生の頃から。あの頃はコートの向こうからや電話なんかで、今ではベッドで、時にはバスルームで。跡部の“手塚専用の挨拶”だと言っても過言ではないくらい、跡部は手塚に“愛してる”と言い続けているから、朝食を食べながら言ったとしてもそれほど珍しくもない。が、バルコニーで鼓動を確かめながら、というのはわりと無いシチュエーションであったのは確かで、手塚はなんとなく照れくさくなった。
  「どうしても世間体が気になって仕方ないっていうんだったら、…俺は止めないぜ。お前の気持ちが軽くなって、それがお前の幸せになるのなら、俺はそれが一番嬉しいことだから」
  「……俺次第だって言うのか?案外狡いことを言う男だったんだな」
 跡部の言葉をあまり良く受け取れなかったようで、手塚は少し毒づいた。黒い瞳を斜めに逸らし、唇を噛んで眼下の街を見下ろした。“Uターン禁止”の文字が、やけにハッキリ見える気がする。たとえこれ以上進むことを止めたとしても、戻ることすら許されない恋の標識みたいだ。

ずっと思っていた。
ちゃんと考えて決めたのに。
もう引き返せないところまで来ているというのに。
このままわがままを通して二人で生きていく事は正しいのかどうか―――と。



 黙り込んだ手塚を気にも留めず、激しさだけだった十代を振り返る跡部。子供だったけど、男だから、自分が相手よりも上だと知らしめたかったあの頃。
  「闘う事でしか分かり合えないと思い込んでいた、若さゆえ…かな。あの頃は身震いする程の、この激情の名を知る術もなかった。そして大人になって、またお前に出会った。だけど、時を経ても想いは色褪せることはなかったぜ」
 女は抱くが愛しているなどとは一度も思ったことがなかった。アベレージ以上の行為をしながら、笑えるくらい頭は冷めていた。手塚との最初で最後になったあの試合を思い出す方が、よほどゾクゾクする。
  「済し崩しに一線を越えてしまったが、俺は後悔していない。だがお前はどうだ?って言ってるんだ。それは…狡いか?」
 跡部の問いかけに、手塚は少し間を置いた後静かに話し始めた。
  「俺は…。俺も後悔なんかしていない。でも俺もやっぱり、お前にとって一番ベストなことが一番嬉しい…か」
  「だから、俺の答えは“愛してる”だ。俺はお前と一緒にいるのが一番幸せなんだ」
  「…偉そうに」
  「ああ?」
  「俺だってお前と同じだ、先に言うなっ」
 言い終わるか終わらないかのうち、手塚はちゅっと軽く跡部と唇を軽く合わせる。そのまま照れくさいのか目も合わせずにフイとそっぽを向いて、サラダをメイクしている赤いプチトマトを口に放り込んだ。
  「なっ…おま…っ!」
  「おー、さらにドキドキし始めたぞ」
  「人体実験するんじゃねえっ」
 いつもの笑顔に戻る手塚の髪を梳く跡部は、愛おしい者を見る目で。髪を梳くというよりも、撫でるという感じのその手は次第に手塚の頭を引き寄せ、額同士をくっつけた。
  「……いいか手塚。お前一人だけで傷つくことはないんだぜ?ため息をつくことさえ遠慮するお前を見ていたって、俺は幸せなんか感じない」
  「ああ、すまない」
  「で、解決したところで、酔い醒ましにベッドに行って、ラスト1回ヤらねえか?」
  「…それは聞かなかったことにしてやる」
 言いながら手塚は跡部の口にクロワッサンを突っ込んだ。ムグムグと咳き込んだ跡部を見て、手塚はちっとも反省の色の見えない口調で「すまんすまん」と謝り、目尻に涙を滲ませて笑った。


ああどうか。
どうかこれから先ずっと、この長いまつげに悲しい涙の糸が絡みつきませんように。


 跡部は差し出されたグレープフルーツジュースを飲みながら、手塚を見つめて心の中で祈るのだった。


(2006)




                             

おわり

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