恋心

  「俺たちの分もがんばってくれよな、手塚」
 大石はそう言って笑うと、菊丸の方に向いた。
 手塚は「ああ」と小さく頷くと、今にも泣き出しそうな菊丸を一瞥し、彼の気持ちを思いやって、黙ってその場を立ち去った。
 短くため息をつくと、ユニフォームのポケットに手を突っ込み空を見上げる。白い飛行機雲が、青い空を二つに割っていた。


 手塚だけではなく、仲間たちはみんな中学生活のほとんどをテニスに費やしてきたと言っても過言ではない。
 それも全国大会までだと思っていたが、思いがけずその先も、いわゆる『テニス漬け』の生活を、仲間たちと一緒に送れると思っていた、のだが…。


 各校の選手たちが、バスが出発するまでの束の間、友との別れを惜しんでいる声が少しずつ遠くなる。
  「俺らの別れの挨拶は、この辺りでするか?」
 いつの間にか、木陰に仁王が立っていた。
  「…。何もこんな遠くでなくともいいんじゃないのか?」
 手塚はバスを振り向き、ほとんど人の話し声も聞き取れないことに笑った。
  「笑うなや。声をかけようにも、ずっと考え事して歩いてるから呼び止めにくかったんじゃ」
 仁王は肩をすくめ、木にもたれかかった。
  「で、お前は、自分の学校の奴らとはちゃんと挨拶を済ませて来たのか?」
 仁王の横に歩み寄りながら、手塚は問う。
 仁王はテニスバッグを背負い、帰る準備は万端だった。それがなんだか、少し寂しいというかもったいないような気がした。仕方の無いことだと頭では理解しているのだが、やはりやり切れない思いはある。
 ふと、さっきの大石や菊丸の顔が浮かんだ。
  「…なんじゃ手塚。俺との別れが寂しいというより、心ここにあらずって感じやのう」
 苦笑しながら仁王は、片手を手塚がもたれる木の幹につけ、抱き込むように距離を縮める。
  「うちにも、今ここで脱落させるには惜しい選手がいるんだ。大石なんて、…お前は知らないかもしれないが、俺はアイツが居なければテニス部を辞めていたかも知れないんだ。俺や菊丸だけじゃない、残る者はみんなためらいのない勝利だとは言えないだろう」
 手塚は苦渋の色を浮かべる。
 仁王は、困ったように頭を下げて呻った。
  「お前、今のセリフそのまま大石とやらに言ってやったか?」
  「いいや、言ってないが」
 手塚は、意外とでも言うように仁王の目を見て、首を横に振った。
  「腹立つのう、お前」
 わざと不愉快そうな表情を作り、仁王は手塚を覗き込む。
  「さっきの跡部のことといい、どれだけ俺を妬かせたら気が済むんじゃ…?」
 仁王は低く囁く。顔をゆっくりと近づけて、手塚の唇に自分のそれを薄く重ねた。手塚は甘んじて受け入れたが、すぐに組んでいた腕をほどき、緩く仁王の胸を押し返した。
  「監視カメラ」
 一言だけ言うと顔を背ける。
  「一応、背中で隠したんじゃけどな」
 仁王は悪びれた様子も無く、ニヤニヤ笑う。
  「もう行った方がいいんじゃないか」
 分かっててやったのかと呆れつつ、手塚は仁王をバスに急かした。
  「なんか腹立つのう」
 仁王は背負っていたテニスバッグを、肩を動かして具合を直す。
  「お前にも腹が立つし、負けた自分にも腹が立つ」
  「おい待て。自分に腹を立てるのは理解できるが、どうして俺にも腹を立ててるんだ?」
 眉を寄せた手塚を真正面から見据えて、仁王は言った。
  「だってお前、他人が思うほどに強くないぜよ」
 言葉に詰まる手塚を気にもせず、さらに仁王は続ける。
  「自分でそれを知ってるから、常に強くありたいと願ってる…そしてそれを悟られまいと必死にポーカーフェイス。たまには弱音を吐けばいいのに」
 仁王は左手の人差し指で、ツイ…と手塚の左の肩を指した。
  「で、たとえば時々無茶をする。…関東大会の時も全国も、その体が壊れてもいい、これが最後の試合になってもいいって、本気の無茶をな、するぜよお前は。見てて腹が立つんじゃ」
  「何でも見透かしてるような言い方をするな」
 言葉ほど、さほど気を悪くした様子も見せず、手塚は歩き出した。
  「それに、たとえそうだとして、お前が腹を立てる筋合いはない」
  「あるぜよ。お前が好きやけん、自分が我慢すればいいとか、自分を犠牲にしてもいいと思えるくらい大事な仲間に嫉妬するぜよ。それに痛みを堪える顔を見てると、ハラハラするっちゃ」
 背筋をピンと伸ばして歩く手塚の後ろを、少し猫背気味の仁王が続く。
  「結局、お前が好きやけんのう」
 くくっと笑う声が手塚の背中側から聞こえた。冗談なのか、冗談めかしたのか判りにくい、この男は。
  「無茶するなよ手塚、無茶はいかんぜよ。大事な事やけん、2回言うた。歌でもサビは何回も繰り返すじゃろ?」
 手塚は振り向き、仁王の目を見る。
  「サビ?」
  「ああ、大事なこととか一番言いたいことだから、繰り返すんじゃろ、サビって」
  「ふうん。俺なら大事なことは一度しか言わんがな。それに伝えたい相手にだけ伝える」
 元も子もないことを手塚が言ったので、仁王はベーっと舌を出した。
  「とにかく無茶はいかんぜよ。…じゃ、トレーニングがんばって。バスが出る時は、俺に両手を振りんしゃい」
 手塚を追い越そうと、仁王は足を速めた。
  「手なんか振れるか。まぁ、合図くらいはするさ」
 聞こえたのかどうか、仁王はさっさとバスの前に集まる人の中に入って行く。その中に居た柳生の肩に後ろから手を置き、顔を唇が触れるほど近づけ、何やら言って笑みを見せ、そのまま振り向きもせずバスに乗ってしまった。
  「お前だって、妬かせるじゃないか」
 手塚は甘い痛みを胸に感じて、さっき仁王が言ってたのはこういうことだったのかなと思った。
 多くを語らなくても分かり合える友に嫉妬し、多くを語らない手塚を理解する。改めて解らない男だと、こっそり苦笑いした。
  「たしかに、他人が思うほどに強くはない、かもな」
 なんだかすがすがしい諦念。深呼吸してもう一度空を見上げると、さっきの飛行機雲は風に散らされ始めていた。


 仁王がバスに乗ると、まだ数人しか選手は居なかった。後ろの方の一人がけの座席を選んで座った。窓枠に肘をかけ、手のひらであごを支えて足を組み、ぼんやりしていた。
 しばらくして全員が揃ったらしく、バスはエンジンがかかった。
 窓の外に、見たことのある他校の選手が寂しそうな表情で立っていた。
 視線を巡らすと、みんなよりも少し後ろに、不二と並んで手塚が立っているのが見えた。
 仁王が手塚と目が合ったと思った瞬間、手塚が軽く片目を閉じた。
  「…っ」
 驚き過ぎて声も出ない。思わず目を見開く。
 音も立てずまわりの目を逃れ、仁王にだけに向けた手塚の合図。まるでプロの殺し屋のような、芸術的とさえ思える渾身の一撃。
 仁王はあごを支えていた姿勢のまま、ズルルと座席から滑り落ちる寸前まで腰がずれた。
  (ウィンクで殺されたぜよ…!畜生、完全に殺された)
 通路を挟んだ席に座る選手が不思議そうにこちらを見るので、とりあえず座り直す。
 一体手塚は何を考えとるんじゃ。あんな無防備なまま、手の早そうな高校生も…いや、他校でも手の早いのは居るというのに合宿なんかさせといても大丈夫なんだろうか…と、しばらく無言で色々考えていた。
 その時バスで帰る連中が、悔いが残るからこのままでは帰れないとか言い出して盛り上がり始めた。ので、乗っかることにした。仁王の場合、多少意味の違う部分もあるのだが、いろんなことに悔いが残っているのは間違いない…。
  (やれやれ…いつまで経っても手塚からはアドバンテージは取れん。まっこと難攻不落やのう)
 仁王もまた、すがすがしい諦念だった。


 そんな次のステージに燃える仁王のことなどつゆ知らず、“ウィンクキラー手塚”はいつものように油断せずに、与えられた課題を黙々とこなすのだった。

(2009.10.27)




                             

おわり

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